「信じてもらえたんかな」

二人が話し始めてから、怒りと困惑を交えたような表情を見せていた島洋子が、ようやく彼女独特の控え目な微笑を見せた。その場の張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。

北村大輔は、島洋子のその表情を見たことで肩の荷が下りて、大きく深呼吸した後微笑んだ。彼女は嘘を吐いてはいないという、確信が芽生えていた。

その感覚は職務質問で得たものだった。

北村大輔は警察官になって以来、ずっと交番勤務一筋でやってきた。従って、刑事ドラマの取り調べのような世界とは無縁だった。しかし彼にとってはそれで良かった。自ら望んで今の仕事を続けているし、定年退職するまでずっと交番勤務でいいと思っている。そしてその希望を、上司には既に伝えてある。その代わり市外への異動には応じるつもりはない。この明確な意思も、もちろん上司には伝えてある。

北村大輔には、上昇志向や野心のようなものは一切ない。平穏無事であることを、一番に考えている。そういう意味では、図書館の司書が彼にとっては一番の適職だったが(本が好きということもその理由の一つだ)、警察官の方が採用される確率が高かったために、選んだだけのことなのだ。

ただしそんな彼のことだから、積極的に職務を遂行しようとはしていないだろうと、考える人が居るとしたらそれは間違いである。

少なくとも職場の同僚や上司は、北村大輔が夜間の自転車でのパトロールで過去に二度、犯罪を未然に防いだことを知っている。

一度目は四年前に、橋の上からコンビニの袋を引っ繰り返して、中に入っていたごみを下の川に捨てていた、若い男を見付けて呼び止めたところ、そばに停めていた車に慌てて飛び乗り急発進させた。

北村大輔はその若い男の態度に不審を抱き、急いで手帳にメモした車のナンバーを、無線で赤穂警察署に連絡した。たかがごみの不始末をとがめられた程度のことで、あんなに慌てて逃げ出すのは怪しいという訳である。

直ぐ様、赤穂警察署での照会後に、兵庫県警に拠る内偵が行われ、兵庫県南西部で二件の連れ去り事件を起こしていた、犯罪組織の構成員が逮捕された。現在に至るまで、事件の全容解明には程遠い状況なのだが、兵庫県内での連れ去り事件はなくなった。

犯罪組織は獲物を狙う場所を変えただけで、根本的な解決には至っていないのだが、各都道府県には管轄があり、兵庫県警は兵庫県民の治安維持がその存在理由であるため、ひとまず満足出来る結果であると言えた。そのきっかけを作った北村大輔は、表彰されることはなかったが、署長から「君が犯人逮捕に導いたのだ」と褒められて嬉しく思ったし、それで十分だった。

そして二度目は今年の七月に、中原夫妻が共同経営するホームセンターの前の歩道を歩いていた男の、ジーンズの後ろポケットから、スパナが飛び出しているのを発見した。怪しいと感じた北村大輔は、その男に職務質問をし、ホームセンターに忍び込もうとしていたことを認めたため、その場で緊急逮捕した。

そのような経験を積んでいた彼は、自分の感覚に自信があったので、それに従って島洋子を疑うことをやめた。

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※本記事は、2021年8月刊行の書籍『天上に咲く赤い花』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。