新番組「あすをひらく」で科学ドキュメンタリーを創出する

それは「宇宙時代」の総集編の放送を終えたばかりの9月末のことであった。半年ぶりに教育局の自室に戻ってくると、それを待っていたかのように太田班長の声が響いた。「安間君頼むよ。待ちに待った新番組だ!」それは放送が11月の勤労感謝の日の特別番組で、わずか2ヶ月しかない上に、できが悪ければ新番組は取り消しというプレッシャーつきの難事業であった。

太田班長の指示は「スタジオを一切使用しないドキュメンタリー番組」だけだった。私はとっさに無重力飛行が好評だった要因である「初めての……」「ドラマティックな……」「臨場感たっぷり……」を盛り込んだ素材を探し始めた。

テーマ発見のきっかけは、その頃起きた山での遭難事件だったような気がする。すぐ浮かんだ映像は遭難者がヘリコプターで宙吊りになるシーンであった。当時は、まだ撮影されたことの無い初めての映像である。

やっつけ仕事で作った「救難機出動」は札幌にある航空自衛隊千歳救難隊の救難ヘリが近くの樽前山の火口付近で遭難者を吊り上げるストーリーで、救難に必要なヘリ操縦者の技能や知識などの後に、遭難者吊り上げのハイライトのシーンがくる。

臨場感を盛り上げるために、アナウンス室は遭難役に、視聴者によく知られた石井鐘三郎アナウンサーを選んでくれた。ドラマティックな実験が近づくにつれ石井アナウンサーの緊張で張りつめた様子がはっきり分かるようになった。これこそ私が意図した、身体が醸し出す臨場感である。

撮影直前に危険だからいやだと言われると困るので実験の最初に私が遭難者役をになった。たしかに怖かった。この番組は大好評とまではいかなかったが局長賞をもらい試作試験は通過した。こうして「あすをひらく」は翌年の4月から週1回の定時番組になり、NHK史上最初の科学ドキュメンタリーシリーズ第1号として公認されている。

新番組「あすをひらく」の出だしの頃は私のように理科系の「専門要員」の枠で採用された新人グループが軸になって制作していたが、次の人事異動期には地方局から優秀なディレクターたちが加わった。山田允夫氏、川尻順一氏、沖清司氏などいずれも私よりNHK歴が長い先輩たちで急にライバルに囲まれた感じがした。

その中には「科学時代」の創始者の一人であった藤井潔先輩も大阪局から戻ってきた。藤井先輩は総合テレビの科学番組の制作経験が最も多く、「巨大科学」と題した海外取材番組を企画し、私を通訳兼番組リポーターに選んでくれた。その後、彼はNHKスペシャル番組部長に抜擢された。

その直前に、私がCP(チーフ・プロデューサー)として制作したNHK特集「核戦争後の地球」が国会で質問攻めに合う事件が起きた時に身を賭して助けていただいた。そんな訳で藤井先輩は私にとって最大のライバルであったと同時に忘れがたい大先輩になった。