このように、新たに登場した証券取引所で株式の売り買いをすることが可能となり、企業への参入と退出が容易となり、会社の経営は取締役の手に委ねられました。このように現在の株式会社と同じような仕組みができましたが、当時の東インド会社は、国家にも類した広範な権限を備えた独占体という性格も持っていました。

オランダ政府は、喜望峰以東におけるオランダのすべての交易権、加えて、「戦役を行い、協定を結び、土地を占拠し、要塞を築く」権限を東インド会社に与えていました。東インド会社は、これらの権限を、他の諸国の競争相手としばしば戦火を交えつつ行使しました。

資本主義的なビジネスと戦役との境は流動的でした。イタリアで発達した送金や為替取引の手法は、アントウェルペンやアムステルダム、ロンドンでさらに発展し、ますますその数を増やす銀行業務の中で、新たな需要に適合させられました。植民地での事業に携わる独占企業体の株式が、証券取引所で扱われる有価証券のかなりの部分を占めていました。資本はますます商品となり、それに伴う投機の要素が飛躍的に強まりました。

巨額の利益の見込みだけでなく、巨額の損失の危険性も高まりました。一七世紀の間に西ヨーロッパの大都市では、証券取引所で運を試そうとする広範な階層からなる大小の投資家が数を増していきました。一七二〇年のイギリス南海会社の破綻は、まさに熱狂というべき投機の結果でした。

当時の貴族・ブルジョワジー・庶民の階層を問わず投資先を探している状態で市場に資金がだぶついていました。株についての十分な知識もない人々がこぞって投機熱にのぼせ、わずか数ヶ月の間に株価が一〇倍にも高騰しました。イギリス政府が泡沫会社禁止法で規制すると、事態は沈静化にとどまらず、あらゆる株価が暴落するという恐慌に陥りました。バブル経済の語源になった事件でした。ロバート・ウォルポールがこの混乱を収拾、政治家として名をあげる契機となりました。

以上のような経過で資本主義に関わる金融の仕組みのほとんどの要素である中央銀行、債券市場、空売り、証券会社、投機バブル、証券化、年金などは、商業資本主義(それに関わる金融資本主義)の段階で確立していきました。