【前回の記事を読む】「英語の授業で生徒が傾聴するのは日本語のみ」大正時代から残る根深い問題

藤村作の皮肉

藤村はさらに、論争が沸き上がるさなか、再び『現代』10月号に「英語科処分の論争に就いて」を発表し、存置論者の発言に対して、辛辣(しんらつ)な皮肉を交えて次のように反論しました。

存置論者は、英語教育には実用価値と教養価値がある。外国語を知り、外国と外国人を知ることによって、かえって国民としての自覚と反省が得られる、というが、藤村は思想内容を知るだけなら翻訳で間に合うのではないかと反論している。

「私は、翻訳なんか駄目だ、原文で読んで言語や文学の持つ匂や味を味わい得る為に英語科が必要だ、と仰しゃる存置論者の指していられる英語の学力はどういう程度のものであろうか。この点は英語科の存廃を論ずるに当って十分に見当をつけなけて(原文のまま:著者注)置かねばならぬと思います。」

藤村はまた、こんな皮肉も言っている。

「何処まで進んだら、外国文を読むのに、頭の中で自国語に全く翻訳することなしに読めるものか私にはわかりませんが、さういうことが中等学校や高等学校の学生に望まれることでしょうか。外国人として英語の前置詞の使い方のむつかしさは、25年日々英文を書き英語を話す職に在った私の知人が今以て十分に出来ないとこぼしておられる事実でもわかりますが、こういうものが自由に使いこなせるでなければ(原文のまま:著者注)、言語の匂いは十分にはわかりますまい。私は天て爾に波は〔助詞・助動詞のこと〕が自国語であるので、幸いな事に和歌や俳諧や、古典文の美も相当に解し得ると思うておりますが、それでも随分苦労はさせられます。」

(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/277~278頁より)