そして、夏がやって来た。豊かな胸、小股の切れ上がった腰の線が何とも色っぽい。浴衣がけで縁台に腰かけ、団扇(うちわ)片手に天の川を眺める姿は、喜多川歌麿描く浮世絵そのもの。並みの男であれば、只では済まされない。なのに、昨夜も指一本触れられなかったお鶴。花魁になること間違いなし、と言われている名妓のお鶴。文左衛門のお渡りをひたすら待ち続ける。気を揉む両親。

「旦那様に抱かれたくないのかえ?」

「そんなあほな……」

「そなたからじかにおねだりするのもえげつないのう。気まずい思いをしてもなんだから、父様と私で伺ってみようかのう」

いざ、文左衛門の前に出ると、どう切り出したら良いものかと、迷う公麿と千里。

「何か、お話があると伺いましたが……。どうぞ何なりと遠慮なくおっしゃってください」

「常日頃、娘共々、大変お世話いただき、厚く御礼申し上げる次第でございます」

「なんの、なんの。礼をおっしゃられるには及びませぬ」

季節の変わりゆく様など、当たり障りのない話をした後で

「お世話になって早や二年、鶴が申すには、抱かれることはおろか同衾することすらもないとのこと。ふつつかな娘なれば、何かお気に召さぬことでも、ございましたのでしょうか」

「いえ、いえ、決してそのようなことはござりませぬ」

「旦那様は龍神様の化身で『私と床を共にすることはあらへん』と、娘は日ごと夜ごと嘆き悲しんでおりますもので」と公麿。

「左様でございましたか。わたくしが龍神様とは、のぅ」

夫、公麿が竹馬の友の借金を肩代わりしたばかりに、一家は困窮。お家再興と幼い四人の弟妹のため、祇園に身を沈めるよう、泣きの涙で因果を言い含めた結果がこの有様では……。

「妻になどと大それたことは申しません。でも、このままではお鶴が不憫(ふびん)でなりませぬ。どうぞ、可愛がってやってくださいませ」懇願する母、千里。

「私は、ただの男にすぎませぬ。今すぐにでもお鶴にのしかかっていきたい。でも、それはできませぬ」

「なぜでござりましょうや?」

文左衛門はお鶴と貴船で初めて会ったときのこと、一力茶屋で再び出会ったときのこと、起居を共にすると、お鶴が、そこはかとなく漂わせる気品で、天女のように思われ、淫欲が燃え盛らないこと。など、胸の内を明かす。

心配が一瞬にして喜びに変わった両親を前にして、文左衛門の話は続く。

「私は(あきない)の道ではそこそこ、名を上げました。しかしながら所詮は薩摩の田舎者にござります。お鶴は私に欠けている品位と教養を備えており、私には観世音菩薩のように思えるのでございます。天女のようなご息女に獣のように狼藉を働き、咲き初めた花を散らすことはできませぬ。世間様にお披露目をして狸小路、有馬両家の祝福のもと、晴れて二人目の妻として迎えたいのでございます」

【前回の記事を読む】女から生まれ、女に愛され、女を愛し、女に囲まれ死んでいく…

※本記事は、2022年4月刊行の書籍『生者必滅、会者定離』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。