【前回の記事を読む】昭和を代表する批評家・小林秀雄が見出した、「ボードレールの魔力」

「明晰なる無知」の根差した“常識”は、省みられて“自覚”となること

ところで、注意すべきは、このような“明証性”に関する事実上(・・・)()定義(・・)は、文学作品に限らず、いわば経験則としてあまねく確立されていることである。これは、実は、ほかならぬその充足に関する判断の物差しが、本来、万人に備わっているということなのである。

又、そうであればこそ、十分に反省された思考は、己の判断や認識の普遍性を、対外的にも現して、広く受け容れられるのである。

─我々は、万人に共通な、その判断の普遍的な働き自体を、 “常識”という名前で呼んできたのである。ある認識的経験が、「明証的」なのは、常識の光のうちに捉らえられて、その直接的確実性ないしリアリティが、全人的に浮き彫りになり、了解されるからである。

そしてそれが、あえて批評の魔力と呼ぶほどに、作品世界に普遍的に実現されているのは、ほかならぬ常識が、その制作過程に干渉し、参加しているからである。

それが、小林の言う、「批評するとは自覚する事」の意味であって、その自覚が省みて、根底から浴びているのは、常識の光なのである。それが、効験(こうけん)あらたかな批評の通力(つうりき)をもたらして、「自他が一つになる」明証性、リアリティを、作品創造に実現しているのである。

しかし、そのことはもはや、常識という言葉に対して、通念的な意味水準を超えて、“賢者の石”さながらに、いささか過大な役割と意味を与えてみえないわけではない。それゆえ、方法として捉え直された常識こそは、その改めての在り方や、そのはらむ通念との微妙な距離において、小林を論ずるうえで避けては通れないのである。