一か月ほどの入院生活でつくづく感じたのは「あいさつ」ほど大切なものはないということであった。病室ではもちろんのこと、洗面所でもロビーでも、あいさつなしでは何も始まらないが、こちらからあいさつすることによって話のきっかけができて、いろいろな分野で活躍している人とコミュニケーションすることはお互いに勉強になる。

日本人のあいさつは「知っている者同士がするもの」という側面が強いが、こちらからあいさつをして嫌な顔をする人は、少なくとも入院生活においては皆無であった。あいさつから始まっていろいろな人間関係が開けるものである。

例えば、最近知り合ったKさんは北海道日高の出身で潜水士であるが、以前は農業技術者としてJICAからブラジルに派遣(最初から永住権が得られたという)され、一七年住んでいたという。潜水士の業界やブラジルでの実体験を教えてもらった。また、鹿島開発の時には神栖にも潜水士として長期滞在したことがあるというから奇遇である。

潜水士は景気の良い時には時給が三六〇〇〇円もしたが、現在は半分以下になってしまったというので、私が大学の非常勤講師は九〇分授業を一か月間(四〜五回)実施して三〇〇〇〇円(夏休みなども支払われるが)ほどですよと説明すると、びっくりしていた。このようにあいさつがきっかけでいろいろな人と友人になることができた。今回の入院生活では「あいさつ」の偉力というものを実感することが多かった。

花の都

花の都と言えばフランスのパリを思い起こす人も多いかもしれない。パリには観光やビジネスで二度行ったことがある。だいぶ昔のことであるが、パリは「花の都」というよりも「糞の都」という印象だった。歩道をうっかり歩いているとたちまち犬の糞をふんづけてしまうほどだった。

航空会社のパリ支店に長いこと勤めていた友人に、そのことを話すと「フランス人は税金を払っているんだから犬の糞は市当局が始末すべきだ」と考えているんだよと言うので、これまたびっくりした。西洋は日本などより公衆道徳が進んでいるものと思い込んでいたからである。

【前回の記事を読む】「客観的事実」という言葉に惑わされすぎているデメリット

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『雑草のイマジネーション』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。