真理という人間の外見だけでなく、その本性と思えるものを同じような方法でとらえようとしているから、結局のところは客観的で妥当な結論に至らない。これは絵の実作者でもないのに彼が導き出した当座の推論で、半ば自己正当化の意図が込められているようでもあり、半ば自己弁護に通じるものだった。

確かに真理を描いた絵は彼女の美貌をかなり正確に写し取ってはいる。それを認めても、生身の彼女には絵画では絶対に写しとれないほどに類いまれな美しさがあると、どうしても思ってしまう。

もっとも、その顔は全体で美貌そのものというよりも、その魅力はひとえに漆黒の大きな瞳が収まっている目であった。男を見つめるそのまなざしは、多分軽度の近眼であったためか少し細められるのだが、それでも十分に大きすぎる瞳の、鋭いとしか言いようのない眼光に彼女らしさが表れている。まさに男心を射抜く強さであると、恣意的に判断してしまう者もいたに違いない。そのように来栖は余計なことまで考えた。

真理を描いたさまざまなポートレートを来栖は見てきたと思うが、結局は全て凡庸の域を出ない絵筆によるものとの否定的判断しかできなかった。絵画の評価に関しては、ずぶの素人と言われればそれまでだが、描く画家の力量を推しはかる時、出来上がったポートレートの絵からうかがえる巧緻や稚拙さといった技術的側面はいつも度外視してしまっていた。

それらに代わる基準として、彼はひたすら真理の眼がどのように描かれているかに注目し、一つ一つの絵を独断的に評価していた。

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