常雄は苦い経験だと言って、明夫にこんな話をした。

「喫茶店に勤めているとき、おれは目茶苦茶に殴られたことがある」

「どうして?」

「あの極道(ごくどう)め、コーヒーの中に自分でマッチの軸を入れておいて難癖つけやがった。おれが謝らなかったもんだから殴られたんだ」

四人掛けのテーブルにデンと一人の男が腰掛けていた。男は指で常雄に来いという合図をした。

「何だ、おめえんとこはこんなもん飲ませる気か。えっ」

男の突き出したカップの黒いコーヒーの中にマッチの軸が浮かんでいる。

「そんなもの入っていなかったはずですよ」

まだ慣れていない常雄はこう言ってしまったのだ。

「今振り返ると全く馬鹿なことを言ったもんだ。あれが奴らの手なんだ。あんな席に座って入口から入ってくる客を色メガネでジロジロ見つめられてはいっぺんに客が来なくなる。多分、おれが謝って代わりのコーヒーを持っていったとしてもあいつは満足しなかったはずだ。早いとこ金をつかませりゃよかったのに、そうしなかったマスターが馬鹿だったんだ。放っておけば帰るとでも思っていたんだろうか……。馬鹿だよ」

「ひどくやられたのか」

「うん、最初一発鳩尾(みぞおち)にくらわされたもんだからもう立てなかった。あいつらほんとに目茶苦茶やるからなあ。男はさんざん蹴った末、セメントの床に投げ出されたおれの右手を靴で踏みつけぐいとねじった。それでこの指が動かなくなったんだ」

常雄は右手の薬指を差し出して見せた。曲がったままよく動かないらしい。明夫は自動車学校の名簿の身体という欄に何やら記入してあったことを思い出した。

「最初にくらわせられなきゃ、おれの方が強かったんだがな。喧嘩の仕方をまだ知らなかったからなあ」

帰りの車内は込んでいたので二人は少し離れて立っていた。明夫はこれまで常雄のたどってきた生活を頭の中で想像していた。あの頃、T機械工業の養成工といえば勉強もでき、体も丈夫な生徒しかなれなかったのだ。きつかったのかもしれないが、そのまま勤めておれば安定した生活が保証されていたはずだ。

……そんなところで明夫の想像力はぷつんと途切れる。高校と大学生活しか知らない明夫には想像できないのだ。とにかくなぜか分からないが当初とは違う道を歩くことになってしまったらしい。でもそのため常雄は明夫なんかよりはるかに多くの体験をして、明夫の知らない世界を知っているのだ。

【前回の記事を読む】やっぱり昔とは違う。なぜこんなにも変ってしまったのだろう。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『春の息吹』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。