靉光は戦中を生き延びたが、彼もまた戦争の犠牲者である。終戦後、帰国を前に上海で病没している。彼への評価は戦後大きく高まった。ある人は、靉光が商に多くの影響と示唆を与えたと、考えていたらしい。確かにその一面があったことは事実である。

こんなエピソードがある。高名な映画監督(数年前に亡くなった新藤兼人監督ではないかと思う)が、靉光を巡るストーリーを映画にしようと広島に取材にやってきて、靉光や商を知る人達に話を聞いて回ったそうだ。

会う人会う人みんなが口を揃えて「監督さん、それは違う。商が靉光に影響を与えたんであって、靉光が商に影響を与えたんではないんだ」と言うのを聴いて、その監督はどう思ったのか分からないが、靉光を描くストーリーの映画は作らないことになったという。

広島出身のその監督は郷土を思っての企画だったのだろうが、いずれにしてもそんなことが理由で靉光を巡る映画が作られなかったとしたら実に残念である。

私達は靉光の遺児である岩垂 紅さんとのお付き合いがあるが、初めてお会いした時に「靉光が生前商さんには随分お世話になった」とお礼を言われたことがある。

靉光ら画家仲間が、商のアトリエに集まって来ると、商が「母さん、めし!」と言ってみんなに振舞っていたという話はゆりも聞かされていたから、きっとそのことを言っておられたのだろうと思っている。商のアトリエに集まった連中は絵描きばかりではなかったらしい。作詩家や文芸人ら多くの人々がいたらしい。

商がのめり込んでいたのは絵画ばかりではない。彼が書き遺した詩は多数あるから、昭和初期の広島に於ける文壇では少なからず注目されていたようだ。しかしそのことで特高に狙われることになったと、塩谷篤子氏が『山路商略伝』に書いている。

もし戦争がなかったとしたら(あるいは特高に捕まることがなかったとしたら)、商はその才能を爆発させて、もっと広島のあるいは日本の絵画・文壇にも歴史を残していたかもしれない。そう思うのは一族の者の欲かもしれないが。

商は映画製作にも興味を示していたというから、もしかすると絵画だけに留まらない性格が災いして、どれひとつとってもモノにならずせいぜい郷土画家で終わっていた可能性も否定できない。と、商の末弟つまりゆりの父が生前言い残していたのが気になる。しかし商らしいと思って温かい気持ちで接してくれる人が多数いたことは救いだ。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『一族の背負った運命【文庫改訂版】』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。