【前回の記事を読む】想像を絶する拷問を受けた西洋画家・山路商…暗黒の時代の凄惨

戦争と平和戦争の論理 

山路 商という人物の歴史的価値

くどいようだが、もう一度、山路 商の人物像について考えてみた。商の父山路徳松が書き残した文章(手紙、日記など)は、残念ながら何ひとつ残っていない。広島がもし原子爆弾で壊滅されることがなかったら、おそらくそうした文章は少なからずあったであろうと思う。

原爆投下の時、最初の衝撃の爆風で家屋が一瞬にして破壊された。そのとき、徳松の妻タツつまり商の母親が、足元に偶然落ちてきた商の自画像をとっさの思いで拾い上げ、それを抱えて裏庭の山に掘った防空壕に逃げ込んだと生前言い残している。

当時住んでいた比治山下の家は、二階に商がアトリエとして使っていた部屋があり、庭もかなり広く柿の木や石榴の木がある大きな家だった。

余談だが、後年、商が残した「柿の絵」はしばらくゆりの父の手元にあったが、柿はその家の庭にあった柿の木の果実だった。商の画家仲間のひとりだった「靉光」が木の板に描いた「石榴の絵」が残っているが、その石榴もその庭の石榴の木の果実だったと思われる。

画布は高価で、簡単には手に入らない時代だったから、二人は比治山下の家にあった木の板を画布代わりにしたものであろう。柿と石榴の違いはあるが、絵の表情は非常によく似ている。おそらく二人が庭から柿の実と石榴の実を取ってきて、二階のアトリエで描いたのだろうと、ゆりは想像している。だから、描いた季節は秋に違いない。

徳松の死後しばらくの間は、残された財産のおかげで子供らは飢えることなく生活した。商は徳松の死後、家督を継いで一家の長ではあったが、いわゆる生活感の極めて希薄な性格だったように言い伝えられている。少なくとも家族を養うため一心不乱に仕事をして糧を得るというタイプではなかった。その名「商」というイメージとは、実にかけ離れた性格であったようだ。

徳松が長男に託したのは、商才に長けた人物に育てようと思って、その名を与えたのかもしれない。しかし、商は、商売つまり金を稼ぐということには全く興味を示さず、絵画の道にのめり込んでしまっていた。さらには、彼は物凄い読書家であったから、作詩や随筆などの文学的な才能だけはたっぷりと体全体に詰め込んでいたようだ。

商の絵画は原爆で相当数失ってしまったので、今では原爆投下の前に人の手に渡るなどして、広島の家にはなかったものだけが辛うじて残されているだけだ。

興味深いことに、私達の手元に残されている貴重な資料がある。ゆりの父が大事にまとめたその資料をめくってみると、生前商の詩や随筆が中国新聞の文芸欄などに掲載されたものだけでも相当数あることが分かった。

また、戦後、商と付き合いの深かった人達の手で、没後五年を記念する小冊子が発行されているが、その小冊子の記述によると、今は原爆ドームとして世界遺産に指定され保存されている「旧広島県産業奨励館」で開催された絵画展では、商の作品が多数展示されたらしい。

商の才能は既に花を開き、絵画に加えて詩や文は新聞の文芸欄を飾るほどに評価されていたことは驚きだ。ただ残念なのは、それは家族を養うだけの収入には結びつかず、家族の生活は徐々に貧困に向かって行くだけだったらしい。終戦を待たずに死んだ商は、戦後の平和な時代を見ずに一生を終わってしまった。