戦争―― 人類のモニュメント

父好高は二度目の招集しかも一人っ子である。調べるうちに数々の招集の不正・不平等があったことが判った。

動員外史によれば、召集令状は連帯区司令部(一府県一連帯区)が必要人員を算出し、在郷軍人名簿により招集することとなっていた。ところが司令部職員や市町村役場の不正で招集延期や逃れが横行していたとあった。

更に極め付きは位階による生還者比率の違いである。将校六七%、准士官七七%、下士官三六%、兵士一八%と驚くほどの違いがある。又藤原 彰氏の『餓死した英霊たち』によれば餓死者は一、二六二、四〇〇人。軍人戦没者のほぼ五五%に及ぶ。幹部には食料が増量されていたというから一般兵士の多くが餓死と推察される。いかに位階による責任の軽重を考えたとしても、到底公正とは言えない。

一方地主や有力者の子弟は国内に配属され、医師や衛生兵など資格取得者が優先招集され職業・世代間の不公平もあった。ニューギニア島に送られた衛生兵の父も、部隊長報告によれば昭和一九年九月に食料断絶、その後は栄養失調・マラリヤ多発とあるから、終戦二週間前の昭和二〇年七月二九日迄ほぼ一年間、妻子の元へ帰ろうと必死に密林をさまよい、やせ衰え力尽き死亡したのであろう。

私は母の死の翌年、戦没者慰霊団でパプアニューギニアに行き現地を見た。日本の一・二倍の国土に人口わずか五六七万(二〇〇六年NATOの調査による)、そのほとんどがうっそうとした人跡未踏の密林、この地に装備劣悪・食料も不十分な一二万の将兵を投入したところで、アメリカ軍を阻止し資源の獲得など出来るはずも無く、東京の参謀本部のエリート達の自己の栄達のみを考える机上の作戦の実態を見た想いがした。因みに帰還兵は約一万。

本人たちは最善と思ったのであろうが、実に拙劣・無能ぶりにあきれ果て怒りが止まらなかった。慰霊祭を行ったパプアニューギニアの空は高々と青く澄み、迫りくるような原色の緑の森、コバルトブルーの穏やかな海は太陽の強烈な日差しを受けてきらきら光り、遥か彼方にはくっきりと形を整えたような入道雲がムクムクと湧き上がるそのコントラストは一幅の絵を見るようだった。

私は、父が眼前の風景を見ながら遥か北の空を臨み感じたであろう行き場の無い無念の想いと母の切ない人生を思い人知れず涙した。その帰途靖国神社の遊就館を見学し昭和一八年に制定された絶対国防圏なるものを見た。その範囲は西部ニューギニア迄、父の上陸した東部ニューギニアは対象外。そのいい加減さに啞然を通り過ぎた。

戦争は味方の中においてさえ弱者に最も過酷であることがよくわかる。又A級戦犯は当然のこととして拙劣な作戦計画を立案しそれを遂行させ、その経緯も解明せず、責任追及が曖昧であったことに加えて、国体維持の美名のもと戦争を長引かせた指導者にも憤りを感じざるを得なかった。