一ノ二 私に対する希望

父は相変わらずの状態ではあるものの、家族四人、それぞれよく頑張って暮らしていたと思います。私は母に様々な用事を頼まれるようになってきました。「妹を眼科、歯科に連れて行ってね」「妹の学費を銀行に入れてきてちょうだい」などのようなことです。

私が小学校高学年か中学生頃のことです。日常、働いていて、なかなか出向くことができない母のためとはいえ、ときには「嫌だなあ」と思いながら行った覚えもあります。また母は私に、父が服用する病気の薬を病院に連絡してほしいと言うこともありました。症状が落ち着いていれば前回と同じ薬をお願いし、送っていただくというようなことであったと思います。

ときも、症状が安定していたからこそのタイミングだったかもしれません。父のかかりつけの病院へ連絡をして、「いつものお薬をお願いします」と言ってね、というような内容であったと思います。当時と現代、医薬の法制度などの違いはあるでしょう。専門的なことは、わかりません。しかし、精神科の薬を送付してもらうように、子どもが電話依頼するのです。今の時代では、考えられないことです。

私は母に言われた通りに電話をかけました。こちらの名前などを伝えた後、先方から丁寧な、美しい声で、「おかわりありませんか?」と聞かれ、「は? おかわり?」と、聞き返したことがありました。先方は、子どもだと察すると、「特に悪くなったり、変化はなかったでしょうか」と、優しく言葉を変えて返してきてくれました。

“おかわり”という言葉は、ごはんのおかわりという意味くらいしか、まだわからない年頃です。本来の大人の用事で使用する会話は、まだまだ苦手です。薬を送ってもらっていた記憶は定かではありません。しかし、電話のやりとりをしていたことは確かに懐かしく覚えているのです。

また父は、病院の先生や看護師さんによくしていただいた思いが強くあったようです。私は、そんな父に、「将来は看護婦になってほしい」とよく言われ、反抗、反論していました。「理系は苦手だし、私にはできない!」それでも再三言ってくるのでウンザリして、「もう! じゃあ、お父ちゃん自分が看護婦になりーや」と言い返し、私は内心(勝った)と思ったのです。

当時は看護師は、少数の男性もあったようですが、多くは看護婦という呼称で女性が就く職業だと世間一般には思われていた時代でした。なれるものなら、そちらがなればいいじゃないかとの思いで私は強く反論したのです。父は、もう言い返せなく残念そうな表情をしていました。

私が中学生のとき、保健体育の保健の教科書で精神疾患の部分の記載を目にしました。授業でもそのあたりの項目を学びました。私は、教室の中にはいるものの、自分一人別の空間の中にいるような感覚で“躁鬱病”の文字を見つめていたように思います。

今でこそインターネットでなんでも検索ができる時代ですが、当時は家にあった辞典や教科書で、浅く知るのみでした。それよりも実体験を重ねてきていて、活字で見る情報以上のものが身についていったと思います。

父は、以前のように大騒ぎすることも少なくなり、繰り返していた入退院も、しばらくありませんでした。元来、真面目で、もの静かな人です。父と一緒にテレビを観て笑うということはなかったかと思います。叔父(父の弟)が時々訪ねてきてくれました。夜、一緒に叔父もテレビアニメを観て笑っていて、叔父は父に、「たまには、こういうのも観てみると、結構面白かったりするよー」と、促して言ってくれました。父は関心はなさそうでした。父の“喜怒哀楽”の“喜”と“楽”は、あまり見たことがありませんでした。

私は、学校のグラウンドでふと空を見ると、今頃、父は、どうしているのだろうかと思いを寄せ、いつしか、嫌いな人から気になる人に変わっていることに気がつきました。

私は、高校三年生の秋、ある会社への入社が内定しました。父は、とても喜んでくれました。「大手の会社で良かった、安心だ」と私の就職を、とても誇らしげに語り、嬉しそうにしていました。