【前回の記事を読む】小山田村の遺跡調査から繋がった「誠に不思議な縁」とは?

岩手県小山田村付近の遺跡調査行

また治宇二郎については、仙台地方の遺跡調査に同行した時のこととして、大正一四年夏の治宇二郎兄の足跡については次の如きものであったと記憶しております。

大正一四年、二三歳、七月仙台を経て、松島と石巻の中間に位置する宮城県桃生郡鷹來村(現在の矢本町)矢本字北浦の酒造家宅に約一ヵ月間滞在し、松島の宮戸島にある貝塚調査を行うとともに石巻の遠藤源七さん、毛利総七郎さんが多年協力して蒐集した考古学的並びに民俗学的コレクションを調査した。フランス語の勉強を始めたのもこの頃からである。と記している。

東北大学に寄贈された遠藤源七さんのコレクションは、後に訪問した折東北大学考古学研究室で須藤隆さんの案内で見ることができた。実際に見る遺物は、治宇二郎のカードで見て想像していたものより大分小さく、意外であった。

治宇二郎は自ら発掘した遺物はすべて大学の研究室や現地に残し、手元には置かなかったが、仙台で発掘したと思われるものの一部は、治宇二郎の没後、妻セツが母校の小学校に寄贈した。

治宇二郎はこの時の調査の概要を「陸前沼津貝塚を掘る」(『人類学雑誌』四〇、一〇)に報告している。

治宇二郎が、科学的研究法をとるようになったことについて、東大人類学教室選科の朋友、八幡一郎さんはこう指摘している。

物理学科におった兄、宇吉郎さんと気の合う点もあって、忽ち頭角を現わし、理学部会という学生の会を組織する一員となった。しかし、勉強の方ももりもりやって、一年たつかたたない内に「石匙の研究」をまとめた。彼は資料を入念に集めるだけでなく、カード・システムできちんと整理し、これを統計的に処理したり、分布図を作ったりするなど小気味よいように仕事を進めて行った。

それは一つには、理学部の俊秀との広汎な交友関係が学問の仕方を会得させたからであろうと思われる。殊に兄宇吉郎さんの先生である寺田寅彦さんに愛され、その学問形成にかなりの影響を受けたと思われる。

(八幡一郎「追想断片」『日本縄文文化の研究』中谷治宇二郎追悼集)