あるときは父からキャッチボールをしようとお誘いがあったので嬉しくて二つ返事でOKした。近くの公園に移動して、いざキャッチボールをしてみるともう、止めたくなってきた。いや、止めたい!

父がボールを投げる。

僕が受け取る。

僕が投げるとボールは父のいるところには届かず違うところに転がっていく。

そうなると父は不機嫌になり「ナロッ!」と小さく怒る。不機嫌にボールを取りに行く父。それが繰り返されるのだからたまらない。ボールを投げるごとに恐怖を植え付けられる。これが遊びであるはずがない。

これは父という教官に逆らってはいけない高等訓練である。

実にうまい教育だと感心する。子供が投げているのだから、そりゃ違うところにいくだろう。それを父は許してはくれない。

本来、楽しいはずの親子の交流であるキャッチボールは次第に苦痛になり全然楽しくない遊戯へと変わっていく。もう、早く終わってほしい。この苦痛の時間が長く感じてしょうがなかった。

やっと日が沈み始め、オレンジ色の夕日が森の茂みへ隠れていくと父は満足したのだろう。地獄のキャッチボールから解放された。父としては楽しかったのだろう。子供との交流ができて満足したようで、僕の気持ちなど察することはない。

あくる日も父は子供との交流を図ろうとキャッチボールを僕に申し込むが、あの地獄のキャッチボールが始まるのかと思うと背筋に氷柱を押し込まれたように凍りついた。僕は身の危険を感じて素早く「やらない」と父に背を向ける。あのような訓練を回避するのは当たり前である。

ただ、子供に拒否されたあのときの父の気持ちはどうだったのだろうと考えずにはいられない。