【前回の記事を読む】「富士山が見たかった」お寺で仏様の頭上に登った少年の言い分

第1章 子供の頃

3 福岡県柳川へ疎開

敗戦の詔勅は高椋家(父経秋の長姉宅)で聞いた。ラジオが何を言っているか分からなかった。東条首相に似た高椋公夫伯父が居た。無口な人であった。何故か恐かった。

その後捕虜収容所に入れられていた連合軍捕虜が解放されて柳川の市街を歩くことがあった。皆雨戸を閉め、声を潜めていた。小さな小穴から、痩せ衰えた西洋人捕虜を初めて見た。これまでの敵に対して、何事も起きなかったのが幸いであった。

高椋家の長男(小生の従兄)は戦前テニス選手として有名だった。田舎町に世界的選手が誕生していたのである。時の文部大臣の祝辞を見たことがある。そのご縁は後まで続いている。筆者が三十年後に、柳川から選手を採用し『広畑製鉄所』庭球部長として、職場で指導をしながら、全国優勝をなし遂げた。大戦前に田舎町柳川に従兄達関係者が蒔いたテニスがこの快挙に結びついたとそのご縁に感謝している。

敗戦になると軍隊の貯蔵物資は人々に開放されて、それを運び出す人とリヤカーで道路が一杯になった。あれほど軍隊が余剰物資を保有していたことも子供心に不思議に思えた。

東京への帰還は列車の切符が手に入らず翌年まで待たされた。やっと昭和二十一年二月(1946年2月)に東京に戻れた。羽犬塚という駅を通過する鹿児島からの復員列車の窓から家族全員飛び乗った。駅までは式さんという高椋家の外周りをしていた男性がリヤカーで荷物を運んでくれ、暗やみの中で別れた。その後会ってはいない。列車の中の復員軍人が食べ物に贅沢であったのに驚いた。中国戦線では内地より食料に恵まれた部隊もあったのであろう。

東京では世田谷三軒茶屋の渡邊いと伯母の家に住まわせてもらった。渡邊家も育ち盛りの幸健、隆、昭典さんらが居り、ご不便をかけ、又お世話になった。渡邊一家は我々にとって、兄弟姉妹同様であり、今も三軒茶屋の家は懐かしい。

いと伯母は、ご主人の不慮の死亡事故により若くして未亡人になられた。実弟にあたる故経秋父とは、ことのほか親しかった。故経秋父は常に渡邊一家を父親のように支え、両家は強い絆で結ばれていた。勉学優れた渡邊兄弟より大きな刺激を受け、我々三人兄弟は勉学に努め、当時難関といわれていた麻布中高校を経て東京大学に合格、学ぶことが出来た。

柳川市出身の親戚の会で、柳光会というのがある。筆者の父親である藤田経秋世代が生きていた頃は盛んに集まって懇親交流の機会があった。物故者も出て、今は定期的には会合が持てなくなった。会合では柳川自慢話が夕刻まで続く。柳川には『広畑製鉄所』庭球部の強化のための選手集めでしばしば行った。今はその機会もなくなった。寂しい。