楠木正成を最後まで支えた長兄・正遠

元徳三年(一三三一年)から建武三年/延元元年(一三三六年)の湊川の戦いで敗死するまでのわずか五年の間に、数々の出来事があった。

この間、正遠は叔父の正成に対して全面的な信頼を寄せ、腹心として忠実に支え尽くしたのである。正遠の活躍ぶりが『建武記』に記されている。

建武三年/延元元年(一三三六)四月、武者所結番定文写に、五番の河内大夫判官正成と一緒に記された橘正遠は『泉州志』によると、正成の甥で、『太平記』に登場する。正遠は赤坂城の戦に正成の実弟七郎(正氏、のちに正季と改名)と共に三百騎を率いて別軍となった「和田五郎正遠」と同一人物である。

また『太平記』の中で「和田五郎正隆」も同一の可能性がある、と記されている。正遠に比べて二人の弟たちはいまだ幼く、戦に参加できず武芸に励み将来に備えていたことが想像される。この五年間の中で、楠木一族にとって特に重要な出来事を厳選して列挙しておこう。

建武の新政

元弘三年(一三三三年)六月二日、鎌倉幕府滅亡の報を得た後醍醐天皇は、楠木正成の参上を受けた。天皇から功績と忠節を称えられた正成は、兵庫から京都まで天皇を警護した。もちろん正遠も随兵として同行した。後醍醐天皇は帰京後、諸将へ恩賞を与えた。

楠木正成は、摂津・河内の二カ国を与えられた。国司と守護の兼務によって統治をした。加えて和泉国の守護にも任じられた。官位と官職についてであるが、建武元年(一三三四年)二月、正成は恩賞として従五位下に叙された。また検非違使にも任官された。

この建武政権下で正成が果たした役割は、雑訴決断所・記録所・恩賞方・武者所の四つの職責を務めることであった。前述のとおり、武者所の結番第五番八席に、長兄・和田正遠の官位が書かれていた。

もちろん上位の第二席に河内判官正成がいた。当時、京都に楠木一族の屋敷があり、正成の嫡男・正行や行遠・高貞も住んでいた。幼き彼らにとって大勢の武士たちの振る舞いや京都の雰囲気などに触れて、何もかも珍しく感じたことであろう。

建武の新政の崩壊と足利尊氏の攻撃──中先代の乱

後醍醐天皇は、政治・軍事のすべてを一元的に把握する政治を求めていた。参画する公家や武士で優遇されたのは楠木正成、新田義貞、名和長年らほんの一部で、ほとんどの武士が不満を抱えていた。その不満を吸収したのが足利尊氏である。尊氏は、六波羅探題の跡地に奉行所を造り、戦に参加した者の着到(出陣証明書の提示)を受け付けるなど、武家の存在を保持していたのである。

一方、天皇の皇子である護良親王は、尊氏の行動が幕府再建をねらうものであると断定した。そこで彼は、父である天皇に尊氏の追討を再三再四求めた。しかし、この考えが急進すぎたため、逆に護良親王は謀反の罪で捕えられてしまった。その後、尊氏の弟の足利直義のいる鎌倉に配流され、殺害されてしまった。中先代の乱で勝利した尊氏・直義の勲功を天皇は褒めて、直ちに帰京するように命じた。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『橘姓楠木氏の末裔 北遠・袴田一族のルーツを解く!』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。