やっとのことで、就職してから五十日が経った。

毎日カレンダーにバツ印を書き込んでいた。この五十日間で俺ができるようになったのは、言われた資材を車から降ろし、職人さんに配ることだ。それでも種類が違っていたり、数が違ったりすると、罵声が飛ぶ。(なぜ、この職場は、みんなこんなにイライラしているんだろう)

俺は最初の給料日に気がついていた。俺の初任給は見習いということで、手当てがつかない月六万円だ。ほかのみんなも、給料日の不満そうな顔から、たくさんはもらっていないことが想像できた。

親の収入がいくらあったのか、俺は知らない。

物心ついて、両親が喧嘩していたのは、多分、お金のことだと推測していた。母さんが泣き出すと、寝ているふりをした。父さんも酔って寝てしまって、夫婦喧嘩はいつも立ち消えだったのだ。給与明細を見たこともなかったので、相場を知らなかったのは、幸せだったのかもしれない。

遅刻だけはしないようにしていた。

のちにいろいろな名目で、この会社は罰金を取っていることを知った。それでも普通を知らない俺には、辞める方法も考えつかなかった。

ある日、俺の少し先輩が仕事に出てこなくなった。なんとなくほかの職人さんの話で、辞めさせられたのだと聞いた。このときは、よほどの失敗をしたんだとしか思わなかった。

体がキツいのは同じだが、俺は環境に馴染んでいった。しっかり鍛錬して職人になろうというまでの気持ちはなかった。まだ始めたばかりだったし、自分がなにに向いているのかも想像ができないほど、俺は幼かった。

母さんが死んで、法事をすることも知らなかったし、お墓も当然持っていなかった。部屋に帰って、母さんの「お帰り」が聞こえるような気がして、お骨と一緒に暮らしていた。

母さんが生きていたときは、俺より早く帰ってきたことなんて、なかった。母さんはいつも急いでいて、どんなふうに話したかも忘れてしまっていた。

そうだ、この頃までは、真っ当に生活しようと思っていたんだ。気がつくと、秋風が吹いてそろそろ掛け布団を買わないと、寝られない気候になっていた。

毎日クタクタのぼろタオルみたいになった体を、それでもやっとのことで奮い立たせて仕事場に通った。

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※本記事は、2021年10月刊行の書籍『泥の中で咲け』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。