戦争と平和戦争の論理 

商の生きた時代

ここで、ひとつだけ記述しておきたいことがある。

商がもし戦後も生き延びていたら、果たしてどう生きて、どう活動しただろうか。

私達が思う(正しくは、斯くあって欲しいと思う)のは、「平和と自由を取り戻した社会に変貌した日本で、彼が望む通り自由に描いただろうし、その創作活動を爆発させたことだろう」ということである。

昭和十年(一九三五年)頃を境に、その後十年間、暗黒の時代を国民は耐え忍ばなければならなかった。商を捕えて厳しい尋問を続けた特高も、平和な時代であれば、想像を絶するやりかたで商やその仲間達に対して拷問を加えることはなかったはずだ。

現代の平和な社会に生きている私達だから、いかようにも想像し主張することができるが、国家権力という得体の知れない力は、時として善良で無力な無辜の市民を痛めつける力となることを改めて思う。権力による市民への虐待は決して許してはならないことを、この機会に主張しておきたい。

おそらく商らを取り調べて「奴らは国家に対する反逆者だ」と結論付けることで大いに自己満足し、かつ上司から「よくやった」と褒められ点数を稼いだのだろうと想像する。

しかし平和な戦後になって、特高という組織はなくなったが、その任にあたった人達は何と言い訳したのだろう。むしろ戦前・戦中に行った残虐な行為を責められるべきだが、彼らを咎めて罰したという話は聞いていない。

敗戦という未曽有の荒廃の下で、それら特高の担当官も、善良な市民と同等に被害者として扱われ赦されたのだろうか。そう考えるとあまりにも公平性を欠いていると思わざるを得ない。

商を筆頭とする徳松の男子らは、分家した三男「汎」と末弟の「監」を除いて戦後の平和を味わった者はいない。それを思うと口惜しい。

山路家の人々をテーマに書いているから、山路一族の生身の人間の苦しみを思っているが、あの時代を生きた日本人の多くが、等しく耐えがたい苦しみを味わって来た。

私達は戦後七十年間戦争のない平和な時代を生きてきた。七十年もの長い間、他国と戦争をしたことのない国は極めて数少ない。この間に、日本は戦後復興を成し遂げ、そして世界第二の経済大国とまで言われるほどの発展を果たした。

この国を誇りたいと思うが、しかしそれをそのまま許さない国々が近くに存在することも忘れてはならないだろう。

近隣諸国との軋轢の下で

明治維新後、近代化をひた走りに走った結果、近隣諸国との戦争という過ちを犯してしまった日本だが、それは本当に避けられないことだったのだろうか。

徳松が大陸に渡ることになった直接の理由は、ロシアとの戦争を有利に進めるための鉄道敷設と運営のためだった。

もし日本が鉄道敷設と鉄道運営の力、つまり技術とノウハウを蓄積していなかったとしたら、大陸進出などと言う大それた政策を採ろうという考えは、日本のリーダー達に浮かばなかったであろう。

もしかすると極東の小さな島国で、貧しい生活に甘んずるだけの小国でしかなかったかもしれない。

もしこの推定が正しければ、日本は、当時の欧米列強のみならず中国そしてロシアという極東の巨大軍事国家の圧力に翻弄され、虐げられるだけの小国に成り下がっていたかもしれない。それは想像するだけでもおぞましい。

では日本は現在の経済大国という先進国の地位を勝ち取るためには、かの時代の政策遂行は必要だったのだろうか。歴史を一市民の側から見ていくと違った形に見えてくるように思う。