(3)カウンセラーの懸念

この時点で彼女らにカウンセリングの継続を勧めたところで、彼女らは聞く耳を持たない。また無理にカウンセリングを続けたところで、見るべき成果は上げられないだろう。なぜ彼女らは聞く耳を持たないのか。

①もう大丈夫だと思い込みたいわたし

事例1、2の女性の様子を見ると、もう大丈夫だと自分に言い聞かせている段階であることがわかる。事例1の女性は就職をして一人暮らしを始めることで、事例2の女性は毒親の存在には限りがあるということを知ったことで、それぞれ先途に希望を見出した。

だが2人の希望に踊る心は、少し浮ついてもいたようだ。無理からぬことではある。これで何とかなるという気持ちは期待となって、その陰にある、果たして大丈夫だろうかという不安を隠してしまうのだ。これまでさんざん苦労してきているのだから、少しでも早く大丈夫だ、と思いたいのは誰しも同じである。

期待するような、そして一方で焦るような気持である。焦るから余計、見極めることは恐ろしくて、先に進んでしまいたくなるのだ。

②問題は解決したという錯覚

同時に、二人とも、重しが取れたような解放感、自分を押さえつけていた力がなくなっていくような安堵感を味わっていた。このことを味わうことは、大変な喜びであると同時に重要なことなのだ。

本来、こういった気持ちは次のステップに進むための原動力とならねばならない。しかしこの時点で、彼女らの解放感や安堵感があまりにも大きく、そのためどちらの女性とも、もう問題が解決したかのように錯覚してしまった。もう大丈夫だと思いたいわたしの心がそれを後押しする。つらいことを思い出したり、自分の課題を考えて苦しい思いをしたりする必要はもうないのだと。

③試したい、やらずにはいられないわたし

もう一つ彼女らをカウンセリングから遠ざけた要因は、彼女ら自身の、自分の力でどこまでやれるか試したい、自分の力だけで進みたいという気持ちだ。親から強い力で支配されていれば、そこから抜け出したいと思うことは普通である。彼女らの支配のされ方は生やさしいものではなかったが、そこから抜け出そうと思う力をなくすことはなかった。

ただ強い支配に負けないためには、それだけ強く自立しようとする心を持たねばならない。それに伴い、人の力を借りずに、自分ひとりの力で進みたい、進んでいかねばならないという思いが強くなってしまう。成長においては、ほどほどに人の力を借りることが大切であり、それが成熟なのだが、初めからそういうわけではない。誰しもが試行錯誤しながら成熟していくのだ。

しかし彼女らの場合、独力で心に巣食った毒親に対抗することが困難であることは明白であった。それでも、大丈夫だ、自分はできると思いたい気持ちが、カウンセリングを続けようとする気持ちに勝ったのだ。なぜなら今までも、そうやって耐え忍びながらここまでやってきたのだから。

このように彼女らは、毒親との葛藤を抱えながら、再び自分の力でそれに立ち向かう道を選んで歩みだしたのだった。それに不安を感じていたのは、彼女らではなく私の方であった。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『毒親の彼方に』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。