未来への手紙と風の女

バブルの後の世の中はひどかった。僕が会社を辞めてからも、世間は混迷を続けていた。僕は、いくつかの会社を渡り歩いたが、最初の会社ではしばらく海外に赴任するよう命ぜられた。勉強のできた僕は当然英会話もできたので、外資系企業に再就職していたからだ。

その会社は、日本のバブル崩壊後の金融界の乱れに乗じて、日本の金融機関を買収するために設立された会社だったが、僕は、日本国内ではなく本社のあるアメリカや、ヨーロッパのいくつかの支社に赴任した。

アメリカでは、日本のバブル期に買われたさまざまな不動産や会社が手放され、それを新たな顧客に売却する業務に就いた。ハイエナのように日本企業の残骸に群がってきたのが、中国資本だった。

僕は日本型の仕事の進め方より、札束で相手の頰を叩くようなドライなビジネス作法に共感を覚えた。真面目にコツコツと仕事をする必要などなかった。相手の弱みに付け込んで、高額を支払って買収した企業や、不動産を二束三文で買い叩いて、莫大な利益を上げることに、何のためらいもなく僕は専念した。

バブル崩壊後にクビになった同僚を擁護して経営者と激論を交わした僕の姿はそこにはなかった。その頃からかもしれない、風の女が頻繁に現れるようになったのは。

僕は、アメリカから、ヨーロッパへと移り、EU発足前後のヨーロッパの混乱を利用した会社の金融界への進出を図るための業務に従事した。アメリカでは落ちぶれた日本企業相手の仕事だったので、楽だったが、ヨーロッパの企業はしたたかで、思うように業績は伸ばせなかった。

会社からは尻を叩かれ、現地の社員には白い目で見られながら、僕は粉骨砕身した。しかし、人との協調性を持たない僕の性格が災いして、支社の中で浮き上がるようになった。それはそれで気にならなかった。僕は、バカなやつらだ、と木で鼻をくくったような態度を取り続けた。僕の業績が思うように伸びないのは、みなこいつらのせいだと思うようになっていった。

そういう思いを態度に出してしまう僕は、周りのサポートを得ることができなくなった。不在中に掛かってきた電話のメモはなく、顧客からのクレームへとつながり、うまくいきそうだった商談をふいにすることもあった。そのたびに、僕は支社の連中を罵った。何度も衝突を繰り返し、そのたびに僕への嘲笑、サボタージュはひどくなっていった。

契約書の作成を依頼した秘書はそれを無視し、僕は寝る間を惜しんで契約書作りをするはめに何度も陥った。秘書を解雇すると言った翌日、本社の幹部から、それは認められないという通知を受け、反対に業績不振をとがめられる始末だった。やがて、僕は会社に顔を出さないようになった。

その頃からだ、風の女が僕の前に姿を現すようになったのは。