「遠智よ。それより腹の児はどうじゃ」

言いながら、中大兄は遠智の隣に身を寄せ、臨月を迎えた腹を撫でた。

「よくあばれておりますよ。大田のときはもっとおとなしかったのですが、この子は……、ほら今も」

遠智が中大兄の手をとって、もう一度自分の腹を触らせた。その時、石川麻呂が入ってきた。中大兄が慌てて手を離した。

「おお、よいよい。いよいよですな。二人目ゆえ安心しておりますが、どうも元気がすぎる子のようじゃ。わしが思うに、今度は王子でありましょう。間違いない」

「父上、そのように期待をされてはなりません。また姫であればがっかりされます」

「それもそうじゃな。ところで遠智よ。明後日、いや、できれば明日にでも河内の屋敷に遷ってくれるか」

「河内?」

河内国は石川麻呂の支配地である。河内国の(さら)荒郡(らこおり)鵜野邑(うのむら)(大阪府四條畷市)に石川麻呂の屋敷がある。

「突然、なぜでございましょう。今日明日にでも児が生まれるかもしれませんのに」

「薬師も引上(ひきあげ)(ばば)も一緒に行かせる。鵜野邑の屋敷は児を生み育てるのにここよりはずっと静かでよいところじゃ。それに明日ならば王子様も付いてくださる」

中大兄王子が頷いた。

「都は騒がしい。先ほど話していた三韓の儀礼もあればなおさらだ。我の大事な王子を生むのにはふさわしくない」

「ほら、また王子と言った。姫かも知れぬと言っておりますのに。でも、わかりました。母上や大田も一緒なら鵜野邑へ参ります」

と、遠智は承知した。他に事情があることは間違いないと思ったが、あれこれと詮索するほど遠智娘の体調もよくなかった。

「もちろん皆一緒じゃ。王子様、どうか明日、よろしくお願い申し上げまする」

遠智娘は笑顔を見せて不安を隠した。

【前回の記事を読む】「早く嫁ぎたい。籠の鳥のように閉じこもるのはもうたくさん」

※本記事は、2022年2月刊行の書籍『烽 ~皇祖の血~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。