【前回の記事を読む】偉大な考古学者だった父…幻の遺跡調査を当時の村民が語る

岩手県小山田村付近の遺跡調査行

清康さんの祖父大次郎さんの話─ある日、下田の徳之助村長から「婿の中谷治宇二郎が近く小山田に来ることになった。小山田駅に下車して矢沢の一本椚分校(大次郎さん勤務)の近くにある駒板遺跡に行きたいそうだから案内を頼む」と言われた。そこで私は遺跡調査に詳しい本家「森」の主人親子に手伝ってもらって約二時間ばかり調査した。

先生は紐の付いたズック製の背負袋を背負い、その中には地下足袋、カメラ、黒い紙、紐類、着替え衣服等が入っており、手には洋傘と検土杖をひもで結わえて持っていた。先生は見つけた遺物は一つとして東京には持ち帰らず、大切そうなものは写真を撮り、その地域の考古学愛好者に保管を依頼していた。

一回目に来た時に添市遺跡(八重畑村、現石鳥谷町)で発見した一〇個ばかりの打製石斧のうち三点を我が家に、他は本家に預かってもらった。清康さんの父芳郎さんの話─先生はやせて弱々しそうだったが、何とも足が早く、ついて歩くのに大変だった。他人の畑に入って表面採集する時でも、持主の農家に行って手て拭ぬぐいかタオルのようなものを上げて許可を受けていた。検土杖を土に差し込めと言われても中々入らず、よくもこんなものを平気で突き差すものだと感心した。

一回目調査の帰途、下田の入口の用水堰で、主に石斧であったが石器の泥をとるため、背負い袋から小さいタワシを出して洗った。これ等の石器類は本家と分家で保管した。本家の主人菅原慶夫さんの話─一寸声高の人だったな。何か考えておられるのか、時々質問をしてもぼんやり遠くの方を見たりして返事のない事があった。身体は細く、あまり丈夫そうではなかった。酒は全く駄目で、折角来られても少し張り合いが無かったな。

菅原慶夫さんの息子、東郷さんの話─先生は形のいい石器ばかりを集めるのかと見ていたら、いろいろ、色のついた石のかけらも大事そうに拾って袋に入れるのでびっくりした。

二回目の調査に来られた時は、確か下田に一週間ばかり居られ、帰京の時、本家ではばあさんがキリサンショ(米の粉を黒砂糖汁でこね、中にゴマやクルミを入れ適当の大きさに形を造り蒸したもので保存が効く餅菓子)、分家では五升餅をついて、それを私が荷造りして、小山田駅からチッキで送った。

先生から東京までの切符買いを頼まれ、確か片道四円七〇銭だったが、随分高いものだと思った。父は一度こちらにも泊りに来ませんかと誘ったが、多忙のためかこちらには遂に泊られなかった。

初めて先生に会った時の印象は色白で真っ黒な髪をたしかオールバックにし、大き過ぎるような眼鏡を掛け、口も大きい人という感じだった。先がちょっととがったカーキ色の帽子をかぶっていたことも印象に残っている。(千葉明「中谷治宇二郎・セツ夫妻と岩手」『早池峰』三〇)

この時の記録は「石剣頭部の文様の一二」として『人類学雑誌』四三巻八号(一九二八年)および『日本考古学選集24』(中谷治宇二郎集)に発表されている。

後から知ったことだが、ここに登場する菅原清康さんは東京帝国大学文学部教官助手を経て新潟大学教授を勤めた人である。私と同じ小学校の一〇年先輩で小山田村のことに詳しい。末弟の篤郎さんはやはり私と同じ小学校の同級生。誠に不思議な縁である。