「子ども」は未完成

教育者は、なぜか「子ども」の未完成な部分を良くは思っていないように感じます。良くは思わないというか、そんな部分を見ると機嫌が悪くなる教育者をときどき見かけます。どうしてなのでしょうか?

冷静に考えてみれば、未完成な部分があってこそ「子ども」だと思いますし、その部分をいかに完成させていくかが「子ども」の課題であり、教育者の関わるべきところです。だからむしろ、そういう未完成な部分を見ると「どう関わろうか」、「どう成長させていくのか」といったことを少し楽しみながら考えてみるぐらいのゆとりがほしいものです。

それにつけても、「子ども」の成長というのは一筋縄ではいかないし、むしろ素直に成長することのほうが少なく、教育する立場からすればやっかい極まりません。しかし、「子ども」を育てる教育者というのはそれが本来の仕事だと思います。それを「億劫で、煩わしくて、面倒極まりない」と考える教育者は「子ども」を育てるのには向いていないのではないでしょうか。

これからの「子ども」を教育する世界は、ますます混沌としてきます。「子ども」の様子をじっくり見られるようなゆとりはなくなるかもしれません。そうなれば、「人」として未完成な部分が多い「子ども」ほど切り捨てられ、その場の状況でうまく対応して、器用で要領よくこなす「子ども」が良しとされるようになるのではないかと少し危惧しています。

教育的な指導とは? この追求がどれだけの教育者で実行され、どれだけの意思で行われるのか。「子ども」の完成された部分に焦点が当たるのではなく、未完成な部分に焦点が当たる教育をぜひ実行してほしいと思っています。

教育は「クリエイティブ」。決して「苦しく」、「辛い」ものではない

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『「子ども」が「人」に育つには』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。