【前回の記事を読む】兵隊ごっこをしていると…「やめなさい。戦争は終わったから」

第1章 子供の頃

3 福岡県柳川へ疎開

疎開先は福岡県山門郡城内村であった。今は柳川市になっている。先祖代々の墓がある福厳寺に一家七人が移った。そこは藤田家の遠い先祖からの菩提寺であった。大きな本堂、納屋、庫裏、大松のある境内などを備えた格式の高い寺で、その裏が広大な墓地になっていた。我々一家は本堂の脇の書院を借りて住んだ。

城内小学校では国語の時間になると、全員の前で教科書を読ませられる。そして一行ごとに筆者が読むと皆が真似をして大きな声を上げて読む。多分東京から来たので標準語のアクセントが良かったのであろう。そんな役割をしていたので、一応みんなの信頼を得ていた。新参者でも殴られなくて済んだ。

校庭には大きなすべり台があって、休み時間にはよく遊んだ。筆者の周りには東京の話を聞きにいつも何人かが集まっていた。その中のひとりが僕に尋ねた。

「富士山ってどんな山? 東京から見えるの? このすべり台から見えるかしら」

「いや白井君、それは無理だよ」

「それでは福厳寺の上からはどうだ」

「分からない。今僕は福厳寺に居るから、いつか見てみるよ」

それから数日後、寺の瓦職人の目を盗んで大きな梯子を使って登ってみた。見ると小学校にまだ通っていない弟(六歳)が後ろから登ってくるではないか。約四十メートル下の境内が小さく見える。そこには福厳寺の僧正様の心配そうな顔が見えた。どこを見ても富士山は見えなかった。仏様の頭上に登ったことで、大目玉を食らった。

炊飯はガスの代わりにかまどとなり、女学生の姉の髪は、柳川高女規則のお下げに変えられた。小学生(国民学校生徒)は裸足で登校をする。学校校舎の入口に大きな水槽があってそこにドブンと入る。足を洗ったことになる。それから教室に入る。掃除は上級生下級生が一緒にやる。床拭きが主な掃除だ。完了すると全員が整列し、六年生が講評をする。ダメな生徒は拳骨で頭を叩かれる。いつも決まった生徒が殴られていた。

軍国主義時代といえ、おかしなことと思ったが見過ごした。例の軍隊の内務班教育のようなことを小学校時代から学校が認めていたのだ。

真夏の道路は熱い。溶けたアスファルトは裸足には堪えた。運良く馬車が通ると荷台の後方にしがみつき、足を浮かせ、道路表面の熱さから逃れた。逆に冬はともかく冷たかった。裸足での登校だから、感覚を失うほど冷たかった。朝礼をしていると弟の太寅がボソボソと列を離れて家に帰る姿をしばしば見た。多分冷えて下痢をしたか、栄養不足で小便を漏らしたからであろう。家に帰ると親に叱られるので乾くまで寺の倉庫裏でひなたぼっこをしていた。