報道局外信部に抜擢され「宇宙時代」で世界を取材

私は以前からNHKの図書館が購入している米月刊誌「航空宇宙技術」で故ケネディ大統領が宣言した月旅行計画の進み具合に目を通していた。そして、その計画を「月をめざして」と題した小冊子にまとめ、各種の勉強会で配布していた。

それが報道局社会部との連絡会を通して外信部に渡ったのか、PDの世界では飛んでもないことに発展した。外信部の提案番組でありながら、私が「宇宙時代」という海外取材番組のディレクターに抜擢されたのだ。当時はまだ米ドルの使用制限があったために海外取材番組は毎年1~2回に限られていた。それだけに、この人事は報道局のPDにとっては前例のない大変な出来事の筈であった。

しかも職員名簿の看板ではいつも下から2番目の若輩の私が指名されたのだ。宇宙開発の知識が多少あり、科学技術の専門用語を英語で使い慣れている事などがあったにせよ、大学落ちこぼれの私が台風の番組で報道局長賞を授与されていたという数々の幸運が積み重なってこの珍事が実現したと思う。そのせいか科学のグループが無い報道局のPDたちの間にも予想したほどのショックは無かったようだ。

1966年初春の朝早く、前の日に富士山山頂に激突した英国航空のジェット機が飛び立った羽田空港には外信部の番組提案者兼団長の背黒記者と番組の構成・演出を担当する私だけがいた。米国での撮影はNHKのアメリカ総局に駐在している星野カメラマンが担当することになっていた。これも米ドルの使用制限のためらしい。

撮影機材には私の決断で海外取材には初めてオリコン同時録音カメラを使うことになった。このカメラは、録音はできるが重くて三脚なしでは使えない欠点があったので、一瞬の表情など情緒的なシーンを重視する従来型のドキュメンタリー番組に使うものはほとんどいなかった。

情緒より論理的でかつ取材現場の臨場感を重視する私は、多くの先輩ディレクターやカメラマンの反対を押し切ってこのオリコン・カメラの採用を決断した。同時録音カメラがあれば取材現場で背黒ナビゲーターの話の収録ができ、スタジオを一切使わない新しいタイプのドキュメンタリー番組の制作が可能になるからであった。

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※本記事は、2021年11月刊行の書籍『私はNHKで最も幸運なプロデューサーだった』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。