ハレンチの敵

「少し手伝ってほしいことがある。来てくれ」

風太がそう電話でハツを呼び出したのは、南雲さんのサイン会が行われる前日の夜であった。すでに二十二時を回っていて外にいるのは街頭に群がる虫たちと、民家を見つめる黒猫だけのように思われた。風太の住む家賃三万円のボロアパートがある辺りは少々殺風景であり、夜一人で歩いていると少し寂しくなってくる。

「なんだ? 私はもう眠いぞ」

ハツはそう言いながらも風太の家を目指して歩いた。彼は人情味のかたまりなのだ。そして言っての通り陽気な奴なので暗い夜道もナンノソノである。ハツは街灯の明かりにコツンとぶつかって落下する昆虫を見て笑った。笑った彼は電気を発してピカッと光る。

するとその光に引き寄せられて、彼の周りにも虫が集まってしまう。「ぎゃはっ。やめろ、やめろ」と笑いながらハツが逃げるのでさらにピカピカと光が増える。するともっと虫を引き寄せることになる。

したがってハツが風太の家を訪れた時には、彼は全身虫まみれであった。風太はドアを開けた直後、ハツに向かって防虫スプレーをふんだんに吹き付ける。良い子は絶対に真似してはいけないが、これは彼らの間で恒例行事になっていた。大学時代、ハツはいたるところで防虫スプレーに見舞われた。彼の体質上仕方のないことだが、傍から見ればとても不憫である。しかし彼自身は陽気なので「またかよー」とヘッチャラな様子であった。

二人は小さなテーブルをはさんで座ると柿ピーナッツの袋を開けた。彼らはしばし無言でピーナッツだけを貪り食った。

「南雲さんのサイン会が行われる真上の階で、グラビア撮影が行われることになった」

柿ピーナッツのピーナッツがなくなったのを見計らい、風太がハツにそう事情を話した。

「ボンキュボン乙女が五人も来るらしい」

それを聞いたハツは大いに笑って風太の体にバチバチと電流を流した。

「笑うなハツ、本当に痛いのだぞ!?」

そして本当に笑いごとではない。下手すれば南雲さんはその凍てつく視線で我々を襲い、ビルごと冷凍保存することになる。再び猛吹雪を起こさせるわけにはいかない。

「ハツ、お前だって凍りかねないぞ?」

「はいはい、わかったよ。しかしビルごと冷凍保存というのは大げさだな」

まあな、と風太も肯く。実際の話、グラビア撮影くらいのハレンチさであれば、部屋ひとつが凍結し冷凍庫と化すくらいの被害であろう。ハレンチはハレンチであっても、それはまだ一線を越えているわけではないからだ。まあそれでも十分大きい被害ではあるが。

南雲さんがグラビア撮影を上回るハレンチを目撃した場合にビルや街がどうなるかなんて、正直誰も知らない。未だ前例が無いため、我々がこうして普通に生きているのだ。

「しかし君の勤める出版社はグラビア撮影をするようなハレンチな会社なのか」とハツが聞くので、「どうやら来月に発売される漫画雑誌の巻頭に載せるらしい」と風太が答えると「なるほど。確かにそういうのをよく見る」とハツは納得した。