【前回の記事を読む】背広姿の支援者たちに見守られながら、緊張の開業初日。肝心の患者の入りは…

広島県にリウマチ学を移植する

広島リウマチ研究会、広島膠原病研究会の立ち上げ

広島に来て救急医療にも慣れ、院長職もこなせるようになると大学時代の虫が動きだすのは仕方のないことである。広島県は私にとって全く地縁・血縁の無いところであったが、広大第二内科助教授の山木戸道郎先生とは以前から学会で接点があった。西条に私が来ることを知ると大変驚かれ、何故先生がと怪訝な顔をされ、いろいろたずねられた。

山木戸先生は当時、呼吸器科の助教授という立場で、喘息に関わっており、リウマチ・膠原病にはほとんど無縁であったようである。以来時々、広島市内で食事などする機会があり、広島に免疫学を根付かせようという話は二人の間で自然と生まれた。

広島着任後、2年余りで私が主導する形で山木戸道郎助教授、整形外科の安達助教授の3名で話を進め、広島リウマチ研究会を昭和55年大々的に立ち上げた。岡大から大藤眞教授、慶応大から本間光夫教授をお呼びしてANAクラウンプラザホテル広島で開催したが、なんと400名を超える出席者があり一同大いに驚いたものである。

第二内科からは山木戸助教授の部下の石岡伸一先生も加わり、お互いの意見交換の場として勉強会をスタートさせた。当初は頻回に会合を重ね、翌年には膠原病研究会も立ち上がり、広島における免疫学即ち、リウマチ・膠原病学を語る場ができた。以来、この両研究会を広島におけるリウマチ・膠原病学の道場と位置付けて高みを求め、活動を続けている。全国からその道の第一人者にご来広をお願いし、底上げを図った。

研究会で私が常に言い続けたことは、発表6分、質疑6分で質疑を大切にしてほしいということであった。講師には遠慮せず歯に衣着せず、納得いくまで質問しましょうということである。そのため、広島の研究会は厳しいとの噂が全国的に広がり、来広する講師は皆さん緊張感を持って講演してくれるという好循環が生まれた。

一方、両研究会を通して製薬メーカーの薬剤販売戦略をまざまざと見せつけられた。リウマチの治療薬、生物学的製剤(Bio)を各社が出し始めると、プログラム作成のお手伝いと称し、知らぬ間にプログラム作成の主導権を握り、気が付けば演題はBio一色となっていた。

Bio関連のデータ以外は発表できない雰囲気が知らぬ間につくられていったのである。研究会全体がメーカー主導に陥りかねない危機感を覚え、私は踏ん張り何とか一線を画す努力を続けてきた。中央から来られる先生方はオピニオンリーダーとして最先端の考えを披露されるのは当然であるが、それ一色となるといろいろと問題が生じてくる。例えば患者の経済的問題でBioが使えない患者に対してどう対応するかという問題などである。

私共は決して患者目線を忘れてはならないのである。私は地方在住の医者として従前の安価な医療でいかにBioに劣らない治療効果を出し続けるかという努力をすることは医師の務めであり、良心であると考えている。人間はお金に関わるサポートを受けるとその金主にモノが言えなくなるということを、学会活動を通して教えられてきた。研究会はそうあってはならないのである。