和枝はじっと耳を傾けていた。今この密閉された空間で鼓膜を震わせ届くのは、高井先生の息が詰まりそうな言葉だけだった。

「今回使おうとしている薬はどちらもポピュラーなものです。ですが肺扁平上皮がんの治療には、この二種のカップリングが非常に有効だとうちの大学では認識しているのです。和枝さんの治療にも当初からこの二種投与を考えていました。しかしこの治療の副反応に末梢神経障害が挙げられていて、ピアノの先生をされていることを考慮し、選択肢から外していました」

手のしびれなどでピアノ演奏に支障が出ることに配慮してくれていたのだ。新しい薬の副反応項目は、前回とほぼ一緒だった。ただ「経験したことのない辛さ」と和枝が表現した吐き気や倦怠感などの度合いは、少し下がるかもしれないとのことだった。「あんなに苦しんだのに」と和枝は挫折をかみしめていた。

それでも先生の話の終わる頃には、体の隅々に生気がみなぎってくるのを感じた。

「高井先生、とにかく何としてもがんを治したいんです。子どもと夫のためにも」

廉は真っ赤になった目をシャツの袖でごしごし擦った。高井先生も眼鏡を外すと、目頭をハンカチで押さえていた。この日はもうひとつ、少し溜まってきた胸水を抜く処置があった。病室のベッドに座り、一五〇ccを抜いた。すぐ検査に回され、がん細胞が見つかった場合、国立Gセンターに送られることになった。

現在、EGFR遺伝子変異など稀な遺伝子変異による肺扁平上皮がんの研究が国立Gセンターで進んでいる。和枝の遺伝子はEGFR遺伝子とは無関係であることがすでに判明しているが、彼女が非喫煙者にもかかわらずこの種のがんを患った因果関係は研究の対象になり得るとして、和枝の細胞を送ることになったのだ。検査・研究の結果はK大医学部にフィードバックされ、和枝と廉にも報告されることになった。

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※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。