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末吉は、金には不自由することはなかった。会社は紘一に任せたことで益々利益が上がった。そのおかげで、創業者で出資率百パーセントのオーナー相談役でもある末吉には、毎月、相当額の役員手当と、年に一回の高額な配当金が支払われていた。

末吉は、自治会や清掃組合の会長も務めるなど、西方市のなかでは、多くの肩書を持つ名士だった。それに末吉は周りに対して、いろいろと親切だった。地域や清掃組合のための寄付や、その他の援助も惜しまなかった。学業優秀なのに家庭の事情で、進学できない子どものために学費を援助したり、保証人になったりもした。

また、中学卒業の子を自分の会社で雇って学費を出し、夜の食事を用意し、その子たちのためにシャワー室を設置したりして、夜間高校を卒業させてやったこともあった。

藤倉産業の就業時間は、朝八時から午後四時までだが、運転手でない助手、特にアルバイトの人たちの仕事はほとんど三時には終わってしまう。末吉は夜間学校に通う子たちには、現場仕事が終わり次第シャワーを浴びさせ、仕出し弁当を食べさせて学校に行かせた。また、疲れて途中で挫折しないように休憩室にマットを敷いて、三十分仮眠を取ってから行くようにもさせた。

夜間の高校でも運動会や学園祭が開催されたが、末吉は会社の名前の入った花輪やご祝儀金などを贈り、可能なときは弁当をフミや嫁の勝代に作らせて、自分も社員たちを連れて見に行った。

そんな学生社員のなかには、そのまま働きながら夜間大学を卒業し、西方市の職員になっている者もいる。その子が清掃課に配属になったときはとても驚いたが、わが子が自分の元に帰ってきたようで嬉しかった。そんな風なので、周りの人たちは末吉のことを、「会長さん、相談役」と親しみを込めて呼んで、敬意を示していた。

末吉は内心、自分が多くの人たちから、「どうせあいつは、所詮、便所の汲み取り屋じゃねえか」と陰口をたたかれ、蔑まれているのではないかと思っていた。そう思っていた人もなかにはいたかもしれない。しかし、それはほんの一握りの人にすぎなかった。

末吉は他人に尽くし、役に立って、周りから称賛されることで自分の存在価値を実感したかった。地位も名誉もなく、ただ家族の生活のために、糞尿の入った重たい肥桶を天秤棒で担いでいた頃、

「滋賀では、大手機械メーカーの工場長として誇りと権威を持って仕事をして生きていたのに今の自分は何をやっているんだ」と思うことがよくあった。

末吉が異常なまでに赤線に執着し通いつめるのは、そんな思いが影響しているのかもしれない。戦後法律からも除外されるほど、世間から見下され続けた世界で、蔑まれながらも必死で生きている人たちが暮らす赤線地帯。末吉は、そこに行けば自分を本当に心から受け入れ、同じ人間として扱ってくれる人たちがいることを本能的に感じ、求めていたのではないだろうか。