【前回の記事を読む】「母さんが脳梗塞」…十年以上前に離婚した父へ泣きながら電話

救命救急

人ってこんなに呆気ないんだ。葬式は出せなかった。直葬を行い、母さんは骨壺に入れられて戻ってきた。母さんの兄弟は誰も来てくれなかった。父さんは、火葬場までは来てくれたけど、俺に言い放った。

「かかった金は、お前が働いて返せ。今日から一人で生きていけ。もう一切、俺に頼るな」

そう言うと、俺の手に請求書を押しつけた。父さんも叔父さんも、生きている人は冷たい。母さんが入った骨壺だけがまだ温かく、そして重たかった。父さんと場末の中華そば屋に入った。このとき食べた冷やし中華が、何日ぶりかで口にした食事だった。二人ともなにもしゃべらなかった。冷やし中華はやけに、塩っぱかった。

心のなかの杭

母さんが死んで、とりあえず一人で生きていかなければならなくなった。近所の人はまるで腫れ物に触るように俺に接し、そして寄りつかなくなった。

まだ幼稚だった俺は、社会的な制度を知らず、自治体や役所に相談に行くことなど、考えが及ばなかった。母さんの生前から親戚づき合いも乏しく、葬儀にも来てくれなかった人にどう頼っていいかもわからなかった。

遠くの親戚より近くの他人だ。中学の頃の友人の実家が営んでいたリフォーム会社に見習いというかたちで就職した。この友人は、中学で番長的な生徒だった。いつも俺は、子分のように使われていたが、まわりで直接会社を営んでいたのがこの友人の実家だけだったので頼ったのだ。なぜリフォーム会社かというと、寮があって住居費と光熱費がタダだったからだ。

「高校のときみたいに、逃げて辞めることはできないんだぞ」

母さんの葬儀のときに、父さんが誰に言うともなしにつぶやいた言葉が、何度も頭に浮かんでは消えた。こっちだって、好きで辞めてきたんじゃないんだ。言い返すことはできなかった。

将来、絶対に見返してやる、自信も裏づけもないけど、意地でそう思うしかなかった。心のなかの杭につかまっていないと吹き飛ばされそうで、呪文のように「見返してやる、見返してやる」と、聞き取れないくらいの声で何度も何度も唱えていた。

俺の心のなかの杭とは、毎日朝から晩まで働いていた、目に焼きついて消えることのない、母さんの残像なのだ。