戦国時代の戦の論理

信長亡き後の跡目争いで、秀吉と勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」で加藤清正との堂々たる一騎打ちで負けた山路将正国であった。そのことに恨みはないが、「太閤記」の記述を見ると、秀吉は正国を裏切り者だと罵り、それでも足らず、長浜城にいた正国の老母と妻子七人を「逆さ磔」などという人道上考えられない方法で殺してしまった。山路一族の子孫として思えば秀吉は何とも憎い仇ということになる。

しかし、戦国時代の戦の論理の下での武家社会の人々の精神性(あるいは覚悟というほうが正しいかもしれない)は、潔いものであったと思わざるを得ない。このような非人道性も、戦国時代に生きた武士階級の宿命(どちらにも共通の論理)と受け入れたのだろうと思うと、悲しくもあるが、その潔い精神性に半ば感動も覚えるのである。

この精神性を大事にすることが、日本人の美徳として長い歴史を築いてきた。しかし、近代においては、その美徳は残念ながら他国には通じない。自らの立ち位置を正当化する論理を日本は築いて来なかった。

歴史から学ぶべきこと

話を日米の戦争に戻そう。

戦争によって得るものはなく、ひとえに国民を不幸に陥れる最悪の国家政策である。日本はアメリカとの戦争は避けたかった。しかし当時の国際情勢と日本が採ってきた政策からやむを得ず導き出した結論としての戦争突入、つまり自衛の戦争であった。マッカーサーもその回想録(議会で行った証言として)に「日本にとっては自衛の戦争だった」と書いていることにほっとするものを感ずるが、自衛戦争だからといって日本の責任が回避されるわけではないことを肝に銘ずべきであろう。

さて戦争論を説くのが私達の目的ではないのでこの辺で留めておこう。

七十四年前のこの日、一九四一年十二月八日、山路 商が特高警察に検挙された。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『一族の背負った運命【文庫改訂版】』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。