【前回の記事を読む】ゲルニカと広島の数奇な因縁…シュールレアリズムに傾倒した「山路商」の先見性とは

ゲルニカ誕生の時代背景

商のゲルニカ

スペイン旅行から戻って、驚く発見があった。ゆりの父が残した古い写真の中に、商が一九三八年に描いたゲルニカの絵があったのだ。

それはネガフィルムのままだったので、長い間ずっと気づかずにいた。それをコンピューターの画面に映し出したところ、カラーで描かれているが、ピカソがゲルニカを完成させるために描いた数々の素描の集合だった。

商がピカソのゲルニカに影響を強く受けたことを知り、是が非でもゲルニカの町へ行ってみるべきだと確信した。それはすぐには実現できなかったが、二〇一八年二月にその機会が訪れた。

そこに行き着くまでには、この時点ではかなり先のことなので、その前に書いておきたいことを優先したい。

戦争と平和戦争の論理 

二〇一五年十二月八日に想う

七十四年前のこの日(一九四一年十二月八日)、日本はアメリカとの戦争の火ぶたを切った。宣戦布告の伝達が遅れ、真珠湾攻撃開始のほうが結果として早かったため、「卑怯な日本」という歴史的な汚名を着せられてしまった。

しかし、アメリカには、日本が先制攻撃を仕掛けるように周到に日本を追い詰める戦略があったことが、近年明らかになっている。日本を嵌めたと言える事実が、アメリカの国防政策の専門家ジェフリー・レコード氏の「Japan‘s Decision for War in 1941」や、フーバー大統領の回顧録「Freedom Betrayed」などで明らかにされている。

戦後七十年を経てもなお、日本人は自虐的な負い目から抜け出せない。フーバー大統領は、回顧録に、アメリカ(ルーズベルト大統領)は明らかに日本を追い詰めたと明記している。

日本人は、冷静に、その回顧録を読んで何が問題だったのか学ぶべきではないかと思っている。

戦争は、国と国との外交戦の延長であり、力と力のぶつかり合いである以上、善悪の問題ではない。戦争に突入することは、その背景にそれぞれの主張があって互いに譲れない究極の状況に至るためである。負けた側は悔しいが、自らの主張を引っ込め、相手側の主張に従わざるを得ないことになるのはやむを得ない。勝ったほうは善であり、負けたほうは悪とされるからである。

戦後、極東裁判が開かれたが、当事国がともに存在を認める法律(外交的には国際条約)が存在していないにも関わらず、「人道に対する罪」などという後付け論理の下に極東裁判は挙行された。負けた方だけを強引に罰するために作り上げた論理でしかない。百歩譲って、日本が人道に対する罪を犯したというなら、広島、長崎への攻撃に原子爆弾を使用したことは、一般市民をターゲットに大虐殺したのであるから、明らかな「人道に対する罪」を犯したことになる。

極東裁判では、それは無視されて一方的に日本の戦争行為のみが問われたことを、忘れてはならないだろう。唐突と思われるかもしれないが、こう書いて思いだすのは、前著「先祖の足跡を辿れ」で書いた山路将正国のことである。