エレベーターに乗り込みながら、万里絵はふと「再婚」という言葉を、溶ける氷のように舌に転がしてみた。再び結婚する、「婚」の女編が左に位置取る華やかな漢字を思いめぐらすと、突然探し物が見つかったように、出版説明会の会場だった丸の内の書店で会った人が脳内に上書きされた。

背の高さ、体つき、スーツやネクタイの色、髪型、肌の色、顔立ち、万里絵はありったけの記憶を手繰って、その人の姿を構築した。

その人は出版説明会に来たわけではなかった。

万里絵たち出版社のスタッフは三階の売り場横のスペースブースで対応していたが、トイレに行きたくなった万里絵は七階まで上がった。四階以上は貸し事務所になっている建物なので、客の往来がなくトイレが混まないのを知っていた。特に七階は身障者や子供連れに対応できるトイレスペースが充実していた。

そう思った人が他にもいたらしく、スーツ姿の男が入口をふさぐように立っていた。入りづらかった万里絵は引き返して、別の階に移ろうと思った。

「……ですか」

いきなり話しかけられた最初の言葉が聞きとれなかった。多分、万里絵を誰かと間違えたのだ。誰かの名前だったかもしれないが、はっきりとは聞きとれなかった。

話しかけられてとっさに万里絵もその人に見覚えがあったように思い、立ち止まったままでしばらく考え込んでしまった。

「失礼しました」

勘違いだったことに気づいたらしい。その人はきっちりと整えられた頭を軽く下げた。万里絵は急ピッチで遡っていた記憶をたどる頭の中の作業をふっつりと止めて、薄い曖昧な笑みを浮かべた。仕事上付き合いのある人の顔を忘れていたなど、とんだへまをしなかったことに安堵はしたが、目の前の人にとって自分が用のある人間ではなくなったことに、少しの落胆を覚えた。

軽く頭を下げてからその人の横を通り過ぎ、目的だった女性化粧室に入ったが、排泄をするという本能的な行為を今からするのだと、知られるのが嫌な気がした。

用を足した後、鏡の前でめったにしない化粧直しをしてから出たが、その人影はなくなっていた。当たり前のことなのに、なんだかがっかりしたのだった。それだけのことで、思い出してみたところでたいしたことではなかった。部屋でジャージー素材のワンピースに着替えてから、二階の食堂に降りた。

※本記事は、2022年4月刊行の書籍『わたしのSP』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。