岩手県小山田村付近の遺跡調査行

治宇二郎は一九二四年(大正一三)および二七、二八年頃に岩手県和賀郡小山田村(現花巻市東和町)で二度発掘調査を行った。小山田村は当時治宇二郎が結婚を進めていた菅原セツの郷里である。

当時の調査について詳しく調べた人に千葉明さん(岩手県経済連・農学博士)がいる。千葉さんは、何よりも宇吉郎の著書の愛読者で、「中谷宇吉郎雪の科学館」の友の会会員である。

二〇〇〇年(平成一二)に片山津で「中谷宇吉郎生誕百年記念式典」とフォーラムが行われた際、宇吉郎の友の会会誌『六花』に「五人の文人科学者とその著書のこと」を寄稿した。五人とは寺田寅彦、中谷宇吉郎、中谷治宇二郎、関四郎、高橋喜平である。

続いて岩手の同人誌『早池峰』に「岩手にゆかりのある文人科学者─寺田寅彦、中谷宇吉郎・治宇二郎兄弟をめぐる人々」を連載し、中谷治宇二郎・セツ夫妻と岩手、治宇二郎の生い立ちから終焉までを執筆した。その中に「中谷治宇二郎の小山田村周辺の遺跡調査に同行した人々」という一節があり、五人の聞き書きが挿入されている。少し長いが、当時の調査を知る数少ない記録なので紹介したい(抄録)。

中谷治宇二郎の遺跡関係の調査は大正末期から昭和の初めにかけてであり、その当時の治宇二郎の行動を知る人はまず居まいと思っていた。所が小山田村出身の菅原清康さんから治宇二郎が調査に来村した当時の様子を教えてもらい、更にご家族や親戚の人々が語る思い出話も数多く教えて頂くことができた。

菅原清康さんの話

中谷治宇二郎先生が私の家に見えたのは二回です。一回目は私が小学一年生の時で、たしか大正一三年の初夏の頃だったと思います。先生の行動は大体覚えておりますが、もちろん専門の考古学の話などは私には全く分りませんでした。

その日の昼近くに、祖父と父そして本家の主人慶夫さんとその長男東郷さんが突然座敷の縁側に腰を下ろし、話を始めました。それは慶夫さんが庭先に干してある米の粉を指さして祖母に串団子を作って先生に差し上げようという相談でした。

私は家で串団子を作る時にいつも私の仕事にしている裏の土蔵に立てかけてあるススキの束から串を作って取り揃え、祖母にわたして沢山の串団子を作って貰いました。当時は串一本に団子を一〇個刺すのがきまりで大皿に盛り上げたこの串団子を四人で食べていました。私は後で先生からミルクキャラメルの小箱をいただきました。

食後、父(当時三二歳)が案内役になり調査に出かけました。父は先生持参の検土杖けんどじょうをかつぎ、行先は約四キロメートル先の八幡村(石鳥谷町いしどりやちょう)の添市そいち集落でした。ここは縄文後期の遺跡のある所です。先生は非常な勢いで畑から数個の石鏃を見つけ、農家の小原さんの周囲の垣根からも打製の石鏃数個を見つけました。私はその間、近くの桑の木に登って桑の実を食べていました。

その日先生は下田〔セツの実家の屋号。村には同じ名字の家が多く、各家に屋号が付けられていた〕の奥さんの実家に泊まりました。先生は白皙痩身で頬が細く、小山田あたりには見られない何とも高貴な風貌で、声は高く歩行が極めて早かったと記憶しています。

リュックサックともつかないカマスみたいな大きな袋に紐をつけた入れ物の中には、手の短い熊手、移植ごて、黒い紙、カメラ(手さげ紐の付いた、後で考えるとドイツ製のブロニーか)等が入っていました。父がそれを背負い、私は一番後ろにくっついて歩きました。

二回目は昭和二年か三年のことで、やはり六月頃、前と同様四人でお昼近く、一本の石棒を持って立寄り、祖母と母が丹精こめて作った小豆、醤油、きな粉、ごま、きゅうりの五種類の串団子を沢山召上り、また家に貯えていた山葡萄酒を飲まれたことを覚えています。

その後、家のすぐ近くにある前田の稲荷さんの石棒、下田のすぐ上の打石の内神さんの石棒、上小山田の一の倉家門前の十数個の石棒を詳細に調査されました。またその近くの遺物多発見地域の検土杖による診断をしました。私にとりましては子供ながらも石器や土器の収集に興味を持つ契機になり、現在も新潟の自宅にかなり多くの私自身で発掘した石器を保管いたしております。

さてその夜先生は下田に泊り、翌日に私の父や本家の親子が一緒に再び添市の調査をされたことは後で聞きました。その時は先生は前にはなかった革のカバンを左肩から右にたらしていたように思います。また病気のためでしょうか、しきりに咳をしておられたことをはっきり記憶しています。

そして何時も飴かキャラメルを口に入れて口を動かしておられたことも眼に焼きついています。「あそこの石をとって来て」と二、三度言われ、急いで取って来て差上げた事も覚えております。