彼女が初めて百万円を蓄えたのは忘れもしない、広告代理店で働きだして四年目の事だった。あの苦労は一体何だったのか。彼女がその絵を初めて目にしたのがいつだったか、高校の美術の教科書に載っていたのか、それとも本屋の画集をぱらぱらめくっていて見たのかははっきりと記憶にない。だが不思議に頭に残る絵だった。

その絵は森の中を馬に乗って進む貴婦人の姿を描いている。それはベルギーのシュールレアリスムの画家、ルネ・マグリットの絵だった。馬にまたがった貴婦人は森の中を進む。その姿は森の様でもあり、木の様でもあり、森を包む淡くかすんだ空気の様でもあり、つかみどころがない。

しかし歩みを止めない馬の動きはリズミカルで軽快であり、どこかユーモアがあり気持ちを和ませる。見る者の目を欺くだまし絵(トロンプルイユ)の大家だったマグリットの真骨頂のあらわれた傑作である。

だがこの詐欺師の騙しにはユーモアのかけらもない。あるとしたらノワールな笑いだけだ。この男の歩いた後には被害者の引き裂かれた心と係わった人間の不幸な足跡が残されているだけだ。彼女が傍から見て鬼塚に丸め込まれている様に見えることはいい。却って好都合だ。しかし振りをする事と本気で丸め込まれる事との間には雲泥の差がある。彼女は彼の悪事に協力する振りをしている内に同じ悪を共有する者だけが感じる、被害者たちを嘲笑い、密かな優越感を味わうという奇妙な快感に一種の共感を覚えている自分を見た。

彼女は一人こっそりと白日夢を見る――夢の中の彼女は天から降ってくる札びらを素手で捕まえながら笑っている。その金がどこから来たのか、何の金なのかはどうでもいい。黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ――。

「丸め込まれてはいないわ。その振りをしているだけよ。それにいつもはい、おっしゃる通りですとは言っていないわよ。あいつが時々おかしな事を言った時はそれは変だと切り返している」

「それだけじゃないでしょ、あいつがあんたをやけに信用しているのは――あいつとあんた、実はおかしなことになっているんじゃないの?」

真世は疑うように言った。麻衣は肩をすくめ、放り出すような言い方で反駁した。

「あんたはこの仕事をきれいごとで済ませられるとでも思っているの? 虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うじゃないの? 相手はプロなのよ。こっちもプロ根性を持たなきゃ対抗出来ない。ここまで来るだけでも大変だったのを忘れたんじゃないでしょうね?」

「それで、あなたの言う”丸め込まれた振り”をしてその結果金を貰うって訳ね。あなたの目的は本当は金じゃないの?」

「金? 金が何だっていうのよ? お互いに信用出来ないのならこの仕事は降りた方がいい」

真世は不快そうな表情を見せて尚も口の中でブツブツつぶやいている様子だったがその場はそれで収まった。

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※本記事は、2021年4月刊行の書籍『マグリットの馬』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。