はじめに

私は北海道函館市に生まれ、教育熱心な両親に育てられ地元の教育大学付属函館小学校中学校、高校を経て東京の大学へ、そして就職。自分自身も漠然と定年まで働き、その後は年金生活と思いきや、なんと居酒屋稼業を始めました。

子供の頃は貧乏でしたが、料理上手で多趣味だった母親と父親が仲良く、とにかくがむしゃらに働いてた両親の姿を見て育ち、気持ちは豊かだったように思います。母親が作った料理は全部美味しかったです。確かな材料を使い、味付けは控えめだけど素材を活かした愛情たっぷりな料理。いつも腹を空かせてたせいもありますが、全部美味しかったなぁ。この子供の頃に舌が肥え、味の良し悪しが身についたんだと思います。子供の頃の食育は大事!

大学時代は寮生活で体育会合気道部に入り、心身ともに鍛えられ、人付き合い等社会生活の基本も身につきました。特に人との接し方、間合いの取り方。先輩後輩、同僚との大学生活において、いろんな人がいてそれぞれがそれぞれの立場で生きているんだと……。

その後、大阪に本社がある大手電機メーカーに就職。一貫して営業を担当してきました。そしてルート営業、大手法人営業、商品営業そして転勤も出向も経験しました。広島での販売会社出向時に父親が免許を取り立ての暴走車に撥ねられ交通事故死。人生ははかない!その二年後に母親も仲良く父親の元へ。自分の人生、好きなことをやらないと。一日一日を大事にと教えてもらった気がします。

会社生活はそれなりにやりがいもあり、充実感もあるものの組織の歯車でしかない自分に気づいたのが、五十歳過ぎた頃。このまま定年を迎えて良いのだろうか? と……。働いてお金をいただくということは、お客様がご満足し納得し、お財布からそれに見合うお金を出していただくこと。お客様へご満足と小さな幸せを提供し、お客様からお金をいただくのだから、当然私も幸せになります。その小さな幸せに関わりたいとの思いで三十五年の会社勤めを終え、居酒屋稼業を始めたのです。

食事とお酒に関わる居酒屋以外は全く考えられませんでした。素人にドがつく、ド素人が始めた居酒屋稼業。そう簡単に上手くいったら怒られちゃう! 何とか常連客も少しずつ増えて、何とかやって行けそうと思った矢先にコロナ禍。一年くらいで終わるものと思っていたのが二年目に入ってもコロナ感染拡大に歯止めがかかりません。ましてや国際的なスポーツ大会開催とコロナ変異株やらで日常生活から大きくかけ離れた日々が続きます。居酒屋秋田や奮闘記! さぁ今日も暖簾を。