第一章 第一次世界大戦までの日米中

アヘン戦争

当時のイギリスの貿易監督官チャールズ・エリオットは外相パーマストン(一七八四~一八六五年)に対して、林則徐が取った一連の措置はイギリス人の生命と財産を危険にさらした不法なものであり、アヘンはいわば身代金として、やむを得ず引き渡したと報告すると同時に、中国に対する砲艦政策の実施を進言しました。

パーマストン外相はイギリスの膨張論者で、彼はすぐに閣議を開き、このままアヘン市場を失えば植民地インドの収入が脅かされ、イギリスに収入の大きな穴があくと主張し、カントン体制の打破を大義名分として、遠征軍の中国派遣を決定しました。

イギリスの遠征艦隊(軍艦一六隻、輸送船二七隻、東インド会社の武装汽船四隻、陸軍四〇〇〇人)は中国に向けて出発し、中国沿岸を北上し、一八四〇年八月には渤海湾に姿を現しました。

イギリス軍による虎門砲台の占領が知らされると、道光帝は一八四一年一月にイギリスに対して宣戦布告しました。

鉄鋼軍艦ネメシス号をはじめとする東インド会社の武装汽船の活躍は、目をみはるものがあり、中国軍艦はたちまち沈められ、香港島は占領され、戦局は圧倒的な軍事力を誇るイギリス軍の優勢のうちに推移しました。

一八四二年七月、長江を遡航したイギリス軍が中国経済の大動脈とも言うべき大運河を、長江との合流点である鎮江で封鎖し、ついで、やや上流の南京に対する攻撃を最後通告すると、清国は敗北を認めてイギリスとの和平交渉に入りました。

南京条約︱東洋の不平等条約体制の始まり

そこで決められた南京条約の主な内容は、①カントンに加えて廈門あもい、福州、寧波にんぽー、上海の計五港の開港とそこでの領事駐在、②香港島の割譲、③公行制度の廃止、④賠償金の支払い(引き渡したアヘンの賠償金六〇〇万ドルの支払い、イギリスの戦費一二〇〇万ドルの支払い)、⑤イギリス軍に協力して逮捕されている清国臣民の釈放、⑥中英両国官憲の対等交渉などでした。

さらに、上海など五港の開港に関して、補足協定として一八四三年五港通商章程が定められましたが、これによって清国は関税自主権を失い治外法権を認めさせられました。

イギリスと同じように、一八四四年には、アメリカ合衆国と望廈ぼうか条約、フランスと黄埔こうほ条約が結ばれましたが、いずれも関税自主権の喪失、領事裁判(治外法権)、片務的最恵国待遇を規定する、いわゆる不平等条約であり、これによって清国の主権は著しく侵害されました。

こうしてアヘン戦争に敗北した清国は、イギリスを中心とする資本主義的な世界経済構造のなかに国家主権を侵害された不平等な条件で組み込まれ始めました。こうしてアヘン戦争は中国が半植民地化される起点となりました。