一九七〇年 夏~秋

3 末はお医者か代議士に

盛夏を働き通した山野家の面々は、白瓜の収穫と漬け込みを終わらせ、やっと一息ついた所でした。三つのタンクには白瓜が寸分の隙もなく塩蔵(えんぞう)されており、これらは数カ月寝かされたのち、奈良の漬け物業者に買い上げられ、樽詰めされて加工場へ陸送されます。

そこで再度酒粕(さけかす)に漬けられて『ナラヅケ』となるのですが、それが我が家の食卓に出されたことは一度もありませんでした。祖父などは「こんな臭いもんよう食うわ」と嫌っていました。

白瓜の栽培は炎天下の重労働である上に、塩や樽の代金が馬鹿にならず、割のよい仕事とは言えませんでしたが、農協が代行して老獪(ろうかい)な業者と不利な契約を結んでいたため、村人たちは向こう十年渋々続ける羽目になりました。二階建ての母屋を挟んで牛舎の反対側に、古ぼけた平屋が建っています。この六畳と四畳半二間の離れには、かつて梅子さんと板東良和さんが住んでいました。

彼らが小学校前の家へ引っ越してからは、山野家の若夫婦が寝起きしています。やがて生まれた長男の私も、母屋の二階に子供部屋をあてがわれますが、寝るときはここで父母と枕を並べていました。

その離れから、軽やかな機械音が聞こえてきます。薄暗い電灯の下で、母がミシンのペダルを踏んでいるのでした。母は洋裁学校を出ており、顧客から持ち込まれた生地(きじ)を使って、デザイン・型取り・裁断・縫製を一人でこなし、縫い上がった洋服を渡して手間賃を貰っていました。

家事と農作業と牛の世話の合間で行うため、疲れた身体に鞭打つ過分な仕事でしたが、当時まだ三十代の母は遅くまで夜なべすることも厭(いと)いませんでした。その頑張りはたいしたもので、我が家の電気製品はすべて母の得た報酬で買った物でした。

私は四本足テレビの下に両足を入れて、映りの悪い画面を眺めていました。これで強度の近視になった私は、牛乳瓶底レンズの眼鏡を一生かけるようになります。この晩はまだ健康な眼で、総理大臣の『佐藤栄作』が国会で喋っているのを見ながら、チクロ入りの粉末ジュースを飲んでいました。チクロは発癌性が取り沙汰(ざた) れて使用禁止になっていましたが、我が家では捨てるのが惜しくて全部飲んでしまいました。

「ジュースはもうやめときない。また寝ションベンするでよ」

母が刺々(とげとげ)しい目つきで言います。

「わかっとう」
「課題はでけよんで」

私の宿題の進捗(しんちょく)状況に、母はいつも眼を光らせていました。

「朝顔、生えてけえへん」

朝顔の観察記録がその夏の課題でした。配布された朝顔の種を、私はさっそく庭の隅に埋めましたが、陽当たりも水はけも悪くないのに、いつまでたっても芽が出ませんでした。一方、マユミの朝顔は順調に育っており、すでに枝分かれした立派な苗となっています。それが妬(ねた)ましくてなりませんでした。

妬み嫉(そね)みは人間の保つ感情のうちで最も愚劣で厄介なものです。他人と比べることをやめたらいいのですが、聖人君子でもなければなかなかに難しいようです。これを制御する術(すべ)を、情けないことに、私は生涯身につけられませんでした。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。