関東大震災

一九二三年(大正一二)八月、宇吉郎と治宇二郎は宇吉郎が家庭教師をしていた渡邉家一家と避暑地の田沢温泉(長野県青木村)に同行した。宿泊先は木造三階建の大きな旅館だった。

ここで仙台の桜井家一家と知り合う。これが二年後、治宇二郎の考古学調査に結びつく機縁となるのである。帰京した翌九月一日、関東大震災が発生した。人類学教室は災害を免れたが、いつ開講できるか分からない状況であった。母てるたちは家財一切を失ってしまう。

残されたのは、隣の渡辺さんという方が持ち出してくれたアルバムだけだった。それでもアルバムが残されたのは奇跡的といって良かった。

てると芳子は不忍池畔に東京市が建てた仮設住宅に入り、そこで商売を続けた。浴衣が飛ぶように売れた。大震災から丁度一年後の一九二四年九月一日の朝日新聞に「か弱い腕に一家を起した奮闘的の女四人─災後一年間の涙の努力」という見出しの記事が載った。中谷てるが四人の中の一人として取り上げられている。

私はこれを横浜の日本新聞博物館でマイクロフィルムを見ていた時偶然見つけ驚いた。こういう記事である。


下谷数寄屋町七に呉服商を営んでいる中谷てるさんは寡婦である。その震災の日小石川白山に居る次男治宇君を尋ねて行った留守中に家の物全部を焼かれて、てるさんと娘さん二人は着のみ着のままに残された。治宇君の外に帝大医科を卒業した長男と、郷里石川県の親戚に預けている長女と共に一家は母と兄妹五人であった。

……一二年前に夫と死別して後を「女手一人」とあなどられまいという決心から、兄弟二人を高等学校から帝大に入れ、姉妹二人は女学校に通わせて来た。

……しかし女丈夫のてるさんはこれではならずとある救護事業の団体へ布団縫いに出て月四〇円で稼いで居ったがその中市から小資本三百円を借出してドンドン売出した。その間に長男は好成績で医科を卒業したものの嘱望されて研究のため助手となった為家計費は当にならず息子の天分を尊重し次男治宇君への学資を送りながら相変わらず自分で活動している。


当時宇吉郎は東大理学部で物理学を学び、治宇二郎はその四月、東大理学部人類学科選科に入学して考古学を学んでいた。記事は事実とは大分違うが、震災から一年後のこと、東京はまだ混乱のさなかにあり、記者が正確な記事を書けるような状況ではなかったのであろう。

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『 幻の父を追って 』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。