ユキワリソウ

♫『北国の春』(千 昌夫)

14年前、スウェーデンに行った。そこに住む日本人20人の、日本人意識を調べるためだった。

ストックホルム郊外の一戸建てに、T子さんと夫のカールは住んでいた。初対面の挨拶を交わし、庭の木製のテーブルに並べられたチーズを摘まみ、ワインを飲んで談笑する。程なく中座したカールが台所に向かう。今日は大学教授のカールが料理当番なのだ。

カールと同じストックホルム大学で社会学の博士課程を修了したT子さんが、この当番制を普通のことと受け止めるのは、一般のスウェーデン女性と同じ感覚である。

具沢山のチキン・クリームシチューの主菜の後、リビングに移動して、デザートのアイスクリームを食べている時、私はカールに尋ねた。

「T子さんとの出会いはどこ?」

「日本に留学する時、シベリア鉄道で、ホームシックにかかった。偶然、T子のスウェーデン語が聞こえてきて、仲良くなった」

コーヒーを飲み終えて、カールは鼻歌交じりの『北国の春』を歌い出した。59歳のカールの一番好きな日本の歌だと言う。その後の数年間でT子さんには四回会った。六本木のスウェーデン大使館で彼女の講演会があったり、彼女の出版物を預かったり、二人で買い物に行ったりした。

五回目にT子さんに会ったのは、講演会の時と同じ、スウェーデン大使館だった。白い花に囲まれた遺影の脇に座るのは、長身で童顔のカールと、アジアの血をそこはかとなく漂わせるダンディーな長男だ。50人近くの人々がT子さんとのお別れの会に集まった。

「T子が好きだった曲を皆で聴きましょう」

カールが再生したDVDは『津軽海峡・冬景色』だった。T子さんが宣言した「79歳まで働いて、80歳からは左団扇の生活」の願い叶わず、70歳を過ぎてすぐの、突然の逝去だった。

日本の北国の春は、千昌夫が歌うように、こぶしの花で動き出す。作詞者いではくの故郷信州の情景を描いたとされる。こぶしは別名、種蒔桜だ。開花の気温が種蒔に好適だから。こぶしも千昌夫も、素朴で味わい深い。

北国スウェーデンでは、スノードロップや雪割草が春の兆しだ。春を待ちくたびれた住民は雪割草を探して歩く。厳寒に健気に咲くこの花を見つけた時の歓喜は、北国に生きる人々だけにしか、きっと、わからない。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『アートに恋して』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。