啓一の退職金は二億三〇〇〇万円、それに、四〇代前半に相続した父の遺産の一部が一億二〇〇〇万円、貯蓄を入れると十数億という現金が残った。また、役員時代に持っていた自社株はそのまま手元に残っている。

配当金だけで、多いときは六〇〇万円を超えた年がある。夫婦だけの生活では、それだけでも十分である。退職と同時に東北の山に原野を購入し、自宅を建ててもまだ一〇億円を超える貯蓄と七万株の自社株をはじめ、数社の株を合わせると、十数万株を持っている。

節子も昨年、母の財産の一部を相続したが、それもまた、相続税を除いて三〇〇〇万円を超えた。このように、夫婦にはいつのまにか莫大な資産が残ったが、二人とも資産の豊かさには実感を持てずにいた。特に啓一は、退職して空いた巨大な心の穴を、何で埋めたらよいかにしばらく悩んだ。

その解決策がこれである。夫婦で東北の山奥に移り住んで自給自足の生活をする。ゆったりと自然に抱かれて生きる。それが二人に共通する願いとなった。

節子は、産婦人科で不妊の検査を受けて問題がないと分かってからは温泉通いを始めた。子宝に恵まれるならと考えて、不妊に効果のある温泉があると聞けば全国どこへでも行った。

そのようにして全国の温泉を巡っているうちに、節子はいつのまにか温泉自体に興味を持つようになっていたのである。それは、夫の出世とともに夫婦生活が疎遠になるにつれてますます高じていった。節子は、夫が退職して東北の山奥に住もうと提案したとき、すぐに温泉を思いつく。

温泉が湧き出る家に住みたい。さもなければ自宅に温泉を引き込みたい。それが、節子の希望だった。

今の総ヒノキ造りの自宅は、その目的を達成するために建てたものだ。残念ながら源泉掛け流しというわけにはいかなかったが、近くの温泉からお湯を定期的に運んでもらい、それを、三階のお風呂に入れて沸かすのだ。そんな生活をここで始めて三年が経つ。

友人が時折見えることはあるが、一年のほとんどを二人で畑を耕し、山の幸を採りに行き、啓一は沢でイワナやヤマメを釣る。たまにイノシシの肉をもらって食べることもある。そして、時間があれば二人とも本を読んだり、エッセーを書いたりする。

そんな平和な日々を送っていたところに今年の異常気象である。そして二人は今、奇妙な隕石の落下と向き合っていた。

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※本記事は、2021年12月刊行の書籍『香倶耶という女性』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。