【前回の記事を読む】出産以上の激痛…「母がドーナツなんとかって病気で死にそう」

第2章 天然だったけど頑張る母

祖母が家にいる間はヘルパーさんを雇い、食事や掃除等は任せて祖母がブザーを押したらヘルパーさんに連絡がつくようにしていた。

平日に近くの親戚が看病をして父は会社の休みの日(大体カレンダー通りに通っていた。ある時、夜中に電話がかかってきた。父方祖母がなくなったといというしらせだった。

父は慌てふためき、とても運転できず困っていた時に偶然母方の祖母が来ていて、個人タクシーをあたってくれ交渉のうえ、メーターを倒し、高速代は払う後の費用は、三万円乗せてもらえることになり年の功、すごいと感動した。

遠足の日で、疲れて寝ていたため準備ができなかった。代わりに母方の祖母が全部用意してくれた。父や母の分も揃えてくれているようだった。死に目には会えなかったが、あたたかいうちにはなんとか間に合った。この後はあまり通わなくなっていた。

落ち着いた日常がもどってきた。社宅に住んでいたのだが、家を建てようとローンを組み、母が建築士さんと一緒に設計した。母は、コンセントの位置までこだわるほど夢いっぱいの家を造っていた。

中学生になった時、祖父が、2度目の厚生労働大臣賞と警視総監賞を、いただくことになり、東京で行われる受賞式に行くのを祖父は楽しみにしていたが、出発当日に会社の敷地で倒れているのが見つかった。

脳内出血だったとあとで聞いた。祖父は意識がなく、しかし入院中にあばれるので、手をベッドに固定していた。面会時は外してあげてよかったのだが、あばれたときに、とても力が強く父の力でもまけてしまうくらいの時もあった。

それでも面会の時だけは固定しなくていいので少しでも長く外してあげたかった母はぎりぎりまで外し、縛るのはなかなか勇気がいるようだった。

「縛るのは、実の子供の役目だ」

と、母が父に言っていたのを覚えていた。

中学通知表。オール5だったのが、ものすごくうれしかった父は寝たきりで意識があるかどうかわからないと言われていた祖父に通知表を見せて話していた。そうしたら目は開かなかったのにかすかに笑ったように見えた。

家族で笑ったよねぇ。今、笑ったよね。

ものすごくみんなで盛り上がったのを覚えている。五感のうち、最後まで残るのが聴覚なので、本当は聞こえていて、思うように体を動かせなくて時々暴れているのかな。

そんな大昔のことを思い出した。

小学5年生で、祖母が他界すると祖父は寝たきりではあるがあまり通わなくなり平日の習い事(習字、ピアノ、英語等)に加えて、土日は学習塾に行きたいと、親に頼み込んで、通うようになった。

一見普通の落ち着いた日常が戻ってきた。

このあと、祖母の看護疲れと家のローンとで、父が悩んでいたのを誰も気づかず、会社の会議室で、会議中に倒れてしまった。「脳内出血」だった。