ところで、森繁さんが生粋のヨットマンであった事を知る人は少ない。実は森繁さんは当時、日本で最大級のスチール製四十フィートヨット「ふじやま」丸の船長であり、オーナーであった。しかしながらその後、日本にも船舶ライセンス制度が導入され、更には大型艇の船艇検査制度が厳しくなって、俳優として多忙となった森繁さんは艇を維持できずヨット仲間であった熱海後楽園のオーナー、田辺さんに預けてホテルの前に陸揚げしてしまった。

私はその行察を知るまで陸揚げされたふじやま丸のメインマストに毎日掲揚されていた「航海の安全を祈る」の旗を、あれは何だろうと横目で見ながら網代のマリーナ通いをしていたのであった。

ボーチカ浸水の頃、日本はバブル期を迎えていて余った金を海に注ぐ海洋レジャーブームが訪れていた。結果、漁港や河川に不法係留するプレジャーボートが急増する社会現象が起きた。そのような時代の背景から、健全な国民の海洋レジャー促進のため設立されたのが当時の運輸省傘下の日本マリーナ・ビーチ協会であった。

船に対する知識と経験、そして久彌さんから得たマリーナ経営のノウハウを持つ泉さんは、協会の専務理事に就任して霞ケ関通いが多くなっていった。その度に赤坂の会社に立ち寄って貰いボーチカの艤装の打ち合わせのあと、食事をしながら海の話に花が咲いた懐かしい思い出がある。

泉さんとの海にまつわる話の中で、齢を重ねつつあった久彌さんが巨大クルーザー「サン・ロレンツオ」を輸入し、昔艇で寄港した日本各地の海の友人を尋ねたいとの強い念願を持っているのを聞いた。

そのサン・ロレンツオは偶然にも会社のピレウス(ギリシャ)支店の船舶部門が代理店であることを知った私は久彌さんの強い希望を叶えるため、部門の役員から直輸入の許可を得て、泉さんからお台場での進水式の際の添乗員として声が掛かった。そして多くの女優さん方の手を取り安全に乗船させたあと、艇のウオッチ役としてフライブリッジに立って第二海堡までの回航のお付き合いをしたのも今でこそ語ることができる秘話の一つとなった。

※本記事は、2022年2月刊行の書籍『居酒屋 千夜一夜物語』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。