【前回の記事を読む】津々浦々の居酒屋を巡った男が語る「出会い」の物語、開幕!

第一章 北海道

一 家族の宴

酒は全員飲むが酔わない。話が兄の新しい世界や昔の家族の思い出であったから興味と笑いが尽きず、親譲りのDNAも手伝って酔うことは無かったようだ。皆で真っ先に唄う歌が洞爺湖であったのには深い訳がある。

一九四五年、鉄の町室蘭は当時日本の重工業に貢献していた日本製鋼や粗鋼生産の雄、富士製鉄がミズリー、アイオワなど米国艦隊の標的となり艦砲射撃や攻撃機の飛行が激しさを増していた。学童には疎開が強いられ、我が家が選んだ先は父が徳舜別(とくしゅんべつ)岳の冬山スキー仲間との縁で、洞爺湖畔温泉街のまさに向かい側の湖畔にある(むこう)洞爺村であった。

当時四歳の私は温泉街からバスで揺られながら長い時間走りその村で暮らすようになったが、兄や姉が村の小学校に通うのを見送ったあと、一人寂しく借り家の窓から見た湖畔には鮮やかな緑を付けた木々が生い茂りカッコウの澄んだ声が湖面に流れて更なる静寂を際立たせていたのを今でも鮮明に覚えている。

洞爺湖の歌はその切々とした情景を歌い上げていて父母の思い出話を聞きながら全員で唄うのであった。一方、「知床旅情」は当時北海タイムズ紙に載っていた連載小説「オホーツク老人」を森繁久彌さんが「地の果てに生きる者」と題して映画化し、その主題歌が全員好きであったことから次に唄う歌は知床旅情と決まっていた。

更にその映画を観た私は、プロ並みの冬山スキー登山家であった父への土産話にしようと、当時熟練者でも難しいと言われていたウトロ側からの羅臼越えに挑戦し成功した希少な話も相まって家族全員が森繁ファンとなっていたのだ。

それから二十年後、まさか長男泉さんとのお付き合いで久彌さんとの縁ができるとは思ってもいなかった。当時ソ連商売が一段落し、かの国もゴルバチョフによるペレストロイカが始まってミグやスホイなどを製造していたソ連の極東航空機製造工場も軍需から民需への大きな転換が進められていた。その事業の一つが戦闘機の先端に使われるアルミ超硬合金を素材としたヨットのハル(船体)を輸出し、外貨を稼ぐプロジェクトとして日ソ経済貿易委員会の分科会で紹介された。

しかし、遊びの商売に興味を示す会社などあろうはずもなく誰も手を上げない。やむを得ず代表通訳を務めていた会社のソ連担当役員が、その頃プレジャーボートを所有して海で遊ぶサラリーマンなど居なかった時代に、私が愛艇で伊豆の島々に渡っていることを知っていて私ならやれるであろうと引き受けてしまった。

私は風まかせで走るヨットなど興味も知識も全く無かったが、かつて数々のソ連商売でお世話になった国が今苦しんでいる。また、家族が大ファンであった森繁さんもプロのヨットマンであった事を思い出し、歌手の小林旭が所有していた愛艇の保管場所、熱海マリーナに相談すると久里浜のヨット艤装会社が良かろうと紹介してくれた。

早速久里浜に出向き会社を訪問すると黒く潮焼けした背の高い社長が出迎えてくれて森繁ですと言いながら名刺を出してくれた。見ると森繁さんと同じ苗字であり、その下に泉と刷ってある。ひょっとしたら森繁さんの、と聞くとそうです長男ですと言う。私は偶然が偶然を生み出す人生の機微に驚いた。そのようにして日本で初めてソ連製ヨット「ボーチカ」(ロシア語でビヤ樽)が日本の海に浮かぶことになった。