おそらく百合が感じとったのは一九番の第一楽章最終小節がもたらすものだったのではないかと思われた。そして同じ曲の第三楽章からはシューベルト独特の悲しみの感情が素直に心にしみてくる。曲想としてはオクターブ間隔の二重和音を奏でながら、他方で素朴なメロディーを訥々と導き出す『メヌエット』の楽章である。

ここでも遅ればせながら百合と思いを共有できていたのではないだろうかと想像した。これではもう想像の域を超えて妄想にまで踏み込んでいるようだ。彼の連想は続いていく。

好みのピアノ曲を聴いて、故人を偲ぶような心境になるとは、彼自身も中年になってやっと人間の思いというものを少しなりと理解できるようになってきたということなのだろうか? 生前の百合とは心の交流など全くないままだったとしても、シューベルトへの気持ちだけは通じ合っていたということなのか?

何ら心の交流などないと思い込んでしまっていたのは確かなことだから、逆に言うと百合とは以心伝心に近い形で気持ちを寄せ合うことも可能だったのだ。

そして百合のほうは実際に心を通わせることができたと思ったのだろう。少なくとも彼女は目が合った時に、彼にだけは自身の考えを認めてもらいたいと望んだに違いない。

それどころか、これは推量というよりも、既に彼の妄想に入っていることかもわからないが、百合は彼に認めてもらったと確信して、彼を愛しているという自覚を持つようになったのではないだろうか? 彼と百合の妄想が重なり合ったということなのか、それとも二人の妄想がシューベルトのピアノソナタを介して結び合ったということなのか?

彼女が亡くなってから現在まで、既に四年の時が経っている。それでも来栖は何らかの結論が出るわけでもない想像をいまだにめぐらしていた。自問自答の形でさまざまに反省し直しても、答えが導き出されることはない。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。