1.看護史にみる生活と看護

ここでは看護の歴史、特に日本における歴史から看護が健康、日常生活との関わりから語られてきたことを知り、現代の看護との結びつきについて考える。近代看護の祖といわれる「フローレンス・ナイチンゲール」の存在とそれ以前と以後の看護の特徴を知り、戦後の日本の看護改革と看護の定義を知る。

1)前近代:原始から近世まで 

『看護学生の日本看護史』を参照すると、前近代は「原始」「古代」「中世」「近世」に分かれており、「原始」では縄文・弥生時代においては「女性による保育と看護が行われていたのであろう」と記載されている。

「古代」では、医療制度は養老律令(718年)のなかの「医疾令」、どのような病気があったかは「戸令」、官職については「職員令」に記載されており、宮廷婦人の治療には女医があたっていた。また、8世紀には仏教が広まったことで僧侶による救療活動、絵巻物にみる看護についての紹介があった。

「中世」は荘園制の社会で、身分が武士、農民、手工業者、商人、僧侶に分かれていた。仏教による救療事業が行われ、鎌倉幕府の滅亡以降の戦乱においては外科、産科、眼科などの専門医の始祖が登場した。キリスト教が伝来した16世紀以降、キリスト教徒による実践は「看護の互助活動ともよべる新しい看護活動の発展」だとされていた。

「近世」とは封建制度の完成期を迎えた江戸時代で、看護は家庭看護であった。看護書が出版・普及され、内容は「妊娠と出産、育児、養老、養生、看病など」で儒教の教えに基づいた啓蒙的な教訓書だとされていた。出産は自宅で行われていたので、産婆という職業が芽生えた。鎖国中には蘭学が発達し、1857年に来日したポンぺが設立した長崎養生所は西欧式病院で、看護人がつけられた。

2)ナイチンゲールが近代看護の礎を築く以前の看護発展 

古代から中世のヨーロッパではキリスト教の精神に基づく宗教的看護が為されていた。教会や修道院において、修道士や修道女、信者らが貧困者や病人の救済を行った。

16世紀の宗教改革からは教会の衰退に伴い教会を中心とした救済事業も縮小し、18世紀のイギリス産業革命後、病院管理は国・都市が担うようになり、「看護人」という女性が現れたが、専門教育も受けておらず看護としては貧弱なもので、社会的にも軽視されていた。そのようななかにおいて、ナイチンゲールの活躍により看護が専門職として認められるようになっていったのである。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『初学者のための看護学講義』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。