扉を開け一歩中へ踏み込んだ人物は、そこで足を止めた。絹物らしい渋い鼠色の着物を着て、黒い光沢のある袴をはいている。がっしりした身体つきで、五分刈りの頭は真白だが、鼻下に広がる髭は漆黒だった。その年齢不詳のいかつい風貌は、壮気を漲らせていた。

「閣下、どうぞこちらへ」汪が丁重に言葉をかけた。

「うむ」うなずいたその男は、周囲に視線を走らせてから口を開いた。

「あんたは汪兆銘さんじゃないか。ずいぶん久しぶりだな」

「閣下も、ますますお元気な様子で何よりです」汪は軽く頭を下げて続けた。

「それでは紹介致します。こちらがインド独立運動の闘士として名の高い、スバス・チャンドラ・ボース氏です」

汪が紹介すると、ボースは上体を傾けて会釈する。

「そうか、あんたがかの有名なチャンドラ・ボースさんか。いや、面構(つらがまえ)といい身に備った貫禄(かんろく)といい、大したものだな」

手放しで褒められたボースは、微笑みながら答えた。

「お褒めにあずかり光栄です。私も日本陸軍の実力者であり、政界の惑星である宇垣一成閣下にお会いできて、嬉しく思っています」

「うむ、その実力者とか惑星というのはよしてほしい。わしは昭和十二年に組閣の大命を受けながら、陸軍の反対でもって断念せざるを得なかった。また翌十三年には外務大臣に就任したにもかかわらず、何の業績も上げずにわずか四ヶ月で辞任してしまった。いまはこの通り、七十を過ぎたおいぼれの隠居に過ぎんよ」

そうは言いながら、その顔面の色艶も朗々とした語り口も、まったく老いを感じさせない、まさに壮者そのものである。

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『救国の独裁者』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。