【前回の記事を読む】【歴史SF】汪とボースが繰り広げる対話…軍事クーデター未遂事件とは

政権

「当時の政治環境や国民感情は、確かに異常というしかありません。例えば三月事件の際の首相は民政党の浜口(はまぐち)()(さち)ですが、彼は前年の十一月に東京駅のプラットホームで右翼の青年に狙撃されて、当時は療養中という有様でした」

「それは政党政治に対する反発だったのですか?」

「というべきでしょう。一九二九年に始まった世界的な大不況の影響で失業者は溢れ、日本経済は危機的状況だったにもかかわらず、政友会、民政党の二大政党は党利党略にのめり込んで、互いの倒閣運動に明け暮れていました。日本国民の政治への怒りや不信感が、いかに激しいものだったかということでしょう」

汪は丁寧に説明を続けている。

「政治のあり方を根本的に変えてほしい、場合によっては軍事政権でもよいとする切実な風潮があったのですな。そのあたりのことは、これから次第に解明されていくでしょうが、それで当面、宇垣に申し伝える手順は直接ここへ呼び出し、我々が伝えることになります」

「果して彼は、納得しますかな?」

ボースは不安を口にしたが、汪は確信ありげだった。

「宇垣一成は、日本陸軍の主流派だった長州閥の継承者と見られていました。本人は岡山県の出身で、厳密には長州閥とはいえませんが、それでも山縣(やまがた)(あり)(とも)に始まり寺内(てらうち)正毅(まさたけ)田中(たなか)義一(ぎいち)と連なる陸軍の主流を引き継ぐべき立場にあったことは間違いありません。ですから、自分が日本を背負って立つという気概は充分に持ち合わせています。ここで歴史の改変というべきテーマを呈示すれば、必ず承諾すると思いますよ」

汪はそのように告げ、さらにつけ加えた。

「ところで主席は、彼と面識がおありですか?」

「いや、私は一度も会ったことがありません」

「私は何度か面談しています。では紹介は私が行いましょう」

二人は言葉を切り、これから現われるはずの宇垣の到着を待ち受けた。ほとんど間を置かずに、廊下に足音が聞えた。ゆっくりとした歩調は、次第に近づいてくる。リノリウムを敷きつめた廊下に響くのは、下駄の足音である。やがて部屋の扉が二度強くノックされた。室内の二人は立ち上がり、汪が声をかけた。

「どうぞお入り下さい」