二、楠木氏の出自

楠木氏の出自は、大きな謎に包まれている。すべての中世日本史の専門家が指摘されているように、確実な史料が少ないのだ。したがって残されたわずかな情報をもとに、多くの推測を交えて三つの説が出されていることが分かった。

(一)河内の土豪説 

『太平記』には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓と言われ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であった、と言われている。楠木正成の母は、橘遠保(とおやす)の末裔・橘(もり)(なか)の娘である。正成の任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある。

(二)得宗被官・御家人説 

楠木氏の地元である河内の金剛山西麓から観心寺一帯に、「楠木」の地名がない。しかし鎌倉幕府が正応六年(一二九三年)七月に駿河国の荘園入江荘のうち、長崎郷の一部と「楠木村」を鶴岡八幡宮に寄進したという記録がある。したがって楠木村に北條得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。

この楠木村は現在の静岡県静岡市清水区に位置している。観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安八年(一二八五年)、入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人・長崎氏に滅ぼされた。そこで同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。すなわち出自が長崎氏と同郷の楠木氏が、観心寺に移ったのではないか、と思われる。

楠木氏は、もとは武蔵国の御家人である。北條氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定される。楠木正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝えられている。

『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。建久元年(一一九〇年)十一月七日、上洛した源頼朝のパレードで、畠山重忠が指揮した行列後衛の四十二番に「楠木四郎、忍三郎、同五郎」が記されている。

(三)悪党・非御家人説 

永仁三年(一二九五年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門繁昌の一味として、楠(木)河内入道がいた。この河内楠(木)一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした。また河内楠(木)氏が散所民の長であったとした。

元徳三年(一三三一年)九月。六波羅探題は、正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。このことから正成が、反関東の非御家人集団とみなす説がある。楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀に至る土豪と商業や婚姻によって結びついていた。

以上、楠木氏の出自として三つの説を究明したが、どの説が真実なのか? この段階では残念ながら明らかにできなかった。袴田五郎左衛門と楠木一族との関係はどうなっているのだろう?

そこで楠木氏の出自を踏まえた上で、さらに年代順に「橘氏と楠木氏との系図」を参照しながら究明することにした。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『橘姓楠木氏の末裔 北遠・袴田一族のルーツを解く!』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。